南幌は1909年に「幌向村」として発足、岩見沢の幌向との混同を避けるために1962年に改名された。かつて野幌と夕張を結ぶ夕張鉄道が通っており、晩翠、南幌と2つの駅があった。その名残で現在も新札幌から江別を経由して夕鉄バス・南幌線が走っている。2021年9-10月にこの路線を歩いた際には、江別最奥の「あけぼの団地」のさらに先を進むということで、ずいぶん遠いなというイメージがあった。しかし、2025年にJRバスの広37 南幌線を歩いてみると、案外あっさり北広島に到達できたので驚いたものである。
町の中心部には、1921年に建てられた招魂場があり、碑が建っている。


中心部を離れ、北広島との中間にある夕張太には「開田記念碑」がある。

草木に邪魔されて裏の碑文を読むのは困難ではあったが、以下のようになっているようだ。
夕張太の開田は、明治三十八年佐藤寅吉氏が南十七線西二十二号で足踏水車による稲の試作に始り 山田森之丞氏の堀抜井戸によるもので 大正九年より山田氏を中心に組合の設立を図るも大正十二年晩翠の一部を含め幌向村土功組合の設立となったが 地形地質其の他の事情によって夕張太が离脱する 然し稲作の熱望は愈々高まり 昭和三年夕張太土功組合の設立が認可され翌四年待望の開田となったものの溝路欠壊相次ぎ 排水機で堰止め深下浸水の中漸く籾播が終り七月七日地域挙げて喜びの竣功式を行った 当時は周囲に水田はなく組合域外からも食糧自給の為に大勢が通い作をした事を憶ふ時 地域振興に寄与した事は大である
泥炭地と云ふ特殊地帯で水害の常襲地 冷害 稲熱病や虫害に悩み又水源の枯渇等疲弊を極めたが苦難を乗越え戦中戦後の国策遂行に貢献したのである
やがて昭和十七年鶴沼 二十一年西幌 道営幌向分水区新規地区と開田は全域に及び 道営容立圃場整備等土地改良が進み 町内屈指の米作地帯として飛躍発展を遂げた 今茲に支線組合統合の為その前身である夕張太土功組合の歴史を閉じるに当り地域開田 先駆者の偉業を後世に遺すと共に 道営幌向かんがい事業によって水源確保 水利の統制昭和三十四年北海土地改良区と合併を果す等幾多の困難を克服して近代農業の基礎を確立された先輩の努力を讃えるものである 運営の合理化 経費の節減 敢えて地域農業振興を念願しての 支線組合統合を機に六十年記念と銘打って創立記念の日に建立したものである 地域の深い御理解を得てこの地に建立できた事を望外の歓びとする
夕張太は1909年の幌向村開村の時代から設定されていた地区で、かつて夕張川が近くを流れていたことから名づけられた。

もともと夕張川と縁の深かった地域だが、現在の治水では、千歳川に排水が行われている。

さらに北広島に向かって進むと、また別の記念碑がある。

南幌開基80年、北広島90年の年に建設された道路の記念碑のようだが、碑文は判読できなかった。
千歳川を渡ると北広島市である。

歩いたコース。

