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バス停の旅

北海道のバス路線を歩き、停留所のある風景を追います。

ボストン近郊の街を歩く

ボストン近郊の街を訪れ、歴史的な場所・建造物を見ていきます。NRHP(national register of historic places)に指定されているものを中心に紹介しています。

MBTAの旅

MBTA(Massachusetts Bay Transportation Authority)とはボストン近郊の公共交通を担う一大組織です。主にバスとコミューターレール、たまに地下鉄を紹介していきます。

What I Found Around

上記3つの旅のカテゴリに入りにくいものを掲載していきます。北海道編と米国編があり、他に特別に項目を設けているものもあります。

(北海道編と米国編はブログ形式に移行しました。各項目は「What I Found Around 北海道編・目次」「What I Found Around 米国編・目次」にリスト化されています。)

Old/Abandoned Buildings in Hokkaido

My collection of old/abandoned buildings/houses, most of them are located in rural areas in Hokkaido. Somewhat nostalgic for me.

My Wines

自分の飲んだ安ワインの記録です。

歴史的建造物の旅

「ボストン近郊の街を歩く」で取り上げなかったNRHP(national register of historic places)、あるいは未指定の古い建物を収録しています(パスワード保護中)。

「岩内の名所」

冬の岩内海岸は、強風が吹きつけ吹雪になると歩くのが大変。以下は、2025年1月にニセコバス・雷電線の敷島内から中心街に歩いた際の写真。2026年4月に雷電トンネルを歩いたときに再訪したが、冬と春ではまったく違っていた。

01/08/2025
01/08/2025
01/08/2025 – 海沿いの家には風よけの柵や壁が設置されている。
01/08/2025

岩内東小学校は1874年、智恵光寺の一室で教育所として創立のが始まり。2026年3月に閉校となった。

05/05/2026 – 閉校間もない時期なので、まだ荒れてはいない。子供たちが遊んでいた。

かもめ公園は大浜地区にある。この地区にはたくさん公園がある。1954年の岩内大火は市街地の8割を焼失させた。その後の復興において、準防火地域として複数の小規模な公園が配置されたのだという。

05/05/2026

「宮園団地」は1975-77にかけて岩内町が建設した公営住宅団地という。吹きさらしの地形から「シベリア団地」と俗に言われていたようだ。

12/22/2025

岩内は古くから開けているだけあって、古い寺院が残る。全修寺と蓮華寺はどちらも中心街にあり、前者は1859年、後者は1878年に設立されている。機会があったら、昔訪れた帰厚院にも行ってみたいと思う。

全修寺 (01/08/2025)
蓮華寺 (01/08/2025)

光照寺は前の2つの寺とは異なり、国道229号線から離れた通りにある。岩内町公式HPによると1898年に現在地に移転したという。

04/30/2026

このあたりには、国道に下っていく細い道がいくつもある。

04/30/2026
04/30/2026

「一本柳」は、市街地に残る明治時代の柳並木の一本。

12/22/2025

また、岩内は日本の「アスパラガス発祥の地」と名乗っている。

アスパラガス発祥の地碑 (12/22/2025)

 北海道の冷害対策作物として生れたアスパラガス産業の今日の隆盛は 大正十一年 岩内町出身の農学博士故下田喜久三が心血を注いだ研究により寒冷な風土に耐えしかも罐詰原料としての特性をそなえた新種瑞洋種の育成に成功したことに因る
 氏は 翌十三年現在の共和町に四十ヘクタールの栽培に着手し 同時に一般農家にその栽培を奨励した ついで大正十三年、岩内町に会社はアスパラガス罐詰の企業化生産に成功した これが東洋におけるアスパラガス産業の始めである
 右の事蹟を継承し この地に於いてアスパラガスの栽培につとめる耕作者と罐詰の生産流通にあたる地元企業が相はかり 関係者の協力を得て此の地が 我が国に於けるアスパラガス産業発祥の地であることを明記し併せて先人の功績を讃え ここに記念碑を建立するものである

そばには1952-75まであった「高台小学校」跡地の碑も建っている。

12/22/2025

隣は岩内協会病院。「岩内高等女学校」の記念碑が建つ。

12/22/2025

碑文。

 大正八年五月二十四日岩内女子職業学校として発足、同十五年三月三十一日岩内町立岩内実科高等女学校に移行、昭和八年二月八日岩内町立岩内高等女学校となり、同年五月二十日この地に校舎を建設する。
同九年四月一日学制改革により北海道岩内高等学校となり宮園の新校舎に移転、その後校舎は高台小学校として使用されたが学校統合により閉校となり、昭和五十二年後者は撤去された。

金刀比羅神社

04/30/2026

碑文。

明治四年淡路稲田藩吉住利平が北海道開拓の士として日高の静内に来道せるも幼少の折金刀比羅大神の神助を得たるにより宗教家たらんと志を立て明治十一年漁業の地岩内に移住、明治十九年に初代石山栄作氏等と相はかり現在の清住の一角に居住まいし讃岐金刀比羅宮より御分霊を勧請奉斎す  明治二十二年に現在の高台一五六番地に金刀比羅教会を建立 昭和二十八年に宗教法人法施行に伴い金刀比羅神社と改称す 昭和六十三年六月十日に創立百年祭執行す

岩内神社は1789年、「松前志摩守良広公が、その守護神である市岐島比売神を岩内請負人熊野屋与左衛門に命じ、漁業豊漁海路守護神として祀ったのが創祀」という。

鳥居 (04/30/2026)
参道 (04/30/2026)
忠魂碑 (04/30/2026)

岩内郷土資料館は一見の価値がある素晴らしい博物館だ。まず館外には、「にしん街道」の碑と「野生ホップ発見の地」碑がある。

04/30/2026
04/30/2026

ここには大量の収蔵品がある。1階部分は整理されたものがショーケースに入れられて展示されている。解説も実に充実している。

岩内の歴史年表より

1869 開拓使岩内詰所設置
1871 開拓使岩内出張所設置
1872 戸数187 人口2,112
1885 岩内古宇郡役所設置
1893 戸数1,389 人口8,022
1897 郡役所廃止、岩内支庁設置
1900 戸数1,904、人口10,2894
1910 岩内支庁廃止
1955 島野村と合併 戸数4,860、人口20,6241

04/30/2026
04/30/2026
04/30/2026
04/30/2026

これは佐藤仁左衛門が私費を投じて開発した道路の地図。稲穂峠から岩内、そして雷電山道を含む。

以下は建網と刺網の説明。

04/30/2026

ニシンが産卵する場所は、ほぼ毎年同じ場所です。そこで、あらかじめそこへ網を建てます。陸から沖に向かって長く延びている「手網」を中心線にして長方形の「身網」が設置されます。ニシンの入り口は陸に向かって開いています。ニシンは障害物に当たると反転して逆走するという習性を利用しているのです。「手網」に沿ってニシンは「身網」に入っていきます。その両側に、「起こし船」と「枠船」がつながれています。頃合を見計らって、船頭が網起こしの合図をします。「起こし船」は網を引き揚げながら、「枠船」の方に寄っていき、「枠船」の船底に繋がれた「枠網」にニシンを追い込みます。そしてニシンで一杯になった「枠網」を曳いて陸に向かいます。その跡には「代わり枠船」が付きます。陸が近くなると小型の「汲船」が来てニシンを移し変え、「やりだし」に運びます。「やりだし」は女性が「もっこ」を担いで待っています。その「もっこ」に積まれたニシンはニシン置き場に運ばれ処理されていきます。
建網1ケ統で岩内郡では600石、古宇郡では1000石取れれば豊漁でした。明治30年代は豊漁が続きます。この時期1000石の総価格は3万円(6億円)でした。経費はその半分の1万5千円(3億円)くらいかかりますので、残り半分の1万5千円(3億円)が純益になります。

04/30/2026

刺網は建網に比べるとその収穫量は比べ物になりませんが、漁夫も5・6人で足り、家族でも賄える数でしたので経費もあまりかかりませんでした。建場にも制約がありませんでしたが、建網と利害が対立する場面も多く、勢力が強い建網業者を保護するために慣行的に制限が加えられていました。建網の周りを囲まない、高さの制限をする、網と網の縦横の縫い合わせや発動機船の使用の禁止などがそうですが、その後発動機船の使用は認められました。
1884(明治17)年当時の記録によると、ニシンが郡来てきたら網を畳み船に積み入れ、郡来ている場所に漕いで行き、順次放網し、海中一帯に網垣を作ります。そこにやってきたニシンは文字通り網の目に刺さり込みます。漁夫は網に十分にかかったかを確かめ、再び船を漕ぎ寄せ、網を手巻の揚網機で船内に取り入れ、前浜に向かいます。魚はずしは陸上で行い、終われば干して次の投網に備えました。漁は午前4時頃から始まり午後9時には終了しています。5時間程度の時間ですから獲れたニシンは生きが良く、これが刺網の一つの魅力でした。
1889(明治22)年の岩内で。刺網漁家一戸の一漁期の収穫高は平均67石で45円(158万円)程度の利益がありました。

次は、ニシン場の親方に関する解説。

04/30/2026

ニシン場の親方は、単に漁業だけをしていたのではありません。その莫大な収入を元に副業を営む親方が出現します。また、その財力を使って地方自治や社会事業に貢献した人も現れます。初代と6代目の町長になった二代目梅沢市太郎は、ニシン建網7ケ統をもち、父の家督(初代市太郎は、漁業海産商・呉服商・岩内汽船社長)を継ぎ、後に醤油醸造業も営みます。1900(明治33)年の一級町村制施行による岩内町誕生と共に初代町長に就任、その後、岩内郡漁業協同組合長、岩内郡水産組合長を歴任、1913(大正2)年再び町長となり、築港事業による町財政建て直しのため奔走します。

04/30/2026

1869(明治2)年、場所請負制度が廃止されます。その後1877(明治10)年からは誰でも漁場を持つことを許されました。このような動きの中で、かつて請負人の下で働いていた漁夫や雇夫が、または、それまでにその地にあって商業を営み財を蓄えた人々が、ニシン漁場を経営していくことになります。この人たちがいわゆるニシン場の親方になっていきます。これから紹介する濱喜三郎もそのような一人でした。
喜三郎は、一時期は泊村のニシン場で働きますが、いったん江差に戻り、29歳の時に岩内に移り住みます。その後、漁業・雑貨・荒物屋を、冬季には豆腐・こんにゃくの製造と多角経営をしますが、51歳の時商業をやめ、全力を漁業に注ぎ最終的には建網10ケ統を持つ大親方になっています。岩内郡では500石で豊漁でしたから、豊漁時には一ケ統あたり現在のお金にすると8千万から9千万の利益を上げますので、8億円から9億円くらいの収入が3ヶ月ほどの間にあったわけで、喜三郎はこの金を元手に酒造業も始めます。「やまき」の殿様と言われた喜三郎は、常に白馬にまたがり、大正時代に東京に治療に行ったときには、小鳥数十羽を購入、今で言えばグリーン車一両を貸し切り、放し飼いにして岩内まで連れてきたというエピソードが残っています。もちろんこんな浪費ばかりをしていた訳ではありません。橋梁の架設、学校た郡役所新築に献金、道路用地提供など社会貢献を行っています。

古宇郡庁舎 (04/30/2026) – 明治22年

古宇郡の発展に功績のあった人物として、簗瀬真精が紹介されている。

1869(明治2)年、北海道に開拓使が設置されます。岩内は近くに茅沼炭鉱をもち、大小の船舶が出入りできる港もあり、明治初期の北海道では重要な位置を占めていました。そこで、開拓使は同年、岩内に開拓使詰所を置きます。1871(明治4)年、岩内郡開拓使出張所となり、簗瀬真精が1874(明治7)年に所長として就任します。
簗瀬家は会津藩家老職を代々受け継ぐ名門であり、戊辰戦争歴戦の勇者でした。翌年古平に転勤しますが、1878(明治11)年再び岩内開拓使分署長として戻ってきます。翌年分署は岩内古宇郡役所になり、初代の郡長に就任します。
その後1886(明治19)年、北海道庁制が敷かれたことを契機に退職します。この間11年、北海道開拓初期の混乱期に、行政の長として民生の向上、教育の基礎作り、場所請負制度廃止後の混乱した漁業の復興、漁業組合の結成など、各方面に業績を上げます。とりわけ茅沼炭鉱の開発・経営には、函館までの海路輸送の開拓を始めとして大きな力を発揮します。
退職後は、岩内郵便局長、岩内郵便電信局長を歴任、岩内の精神的バックボーンとして指導的な立場にあり、岩内地方の発展に貢献した第一人者でした。
町内には明治時代末建設の簗瀬家が現存しています。これは北海道の著名な建築物の一つにもなっています。基本的には和風建築ですが、左右対称の西洋建築様式も取り入れた優れた建造物です。

岩内駅からの国鉄料金表 (04/30/2026)
岩内尋常小学校 (1874)と岩内女子尋常高等小学校 (1901) (04/30/2026)

2階部分はユニークで、未整理の資料が雑多に保管されている。説明などもないが、きちんと保存されている様子がわかる。

雑多な展示 (04/30/2026)
岩内線「さよなら号」のヘッドマーク (04/30/2026)

冬の岩内海岸と市街を歩く動画。

2026年春に歩いた動画(一部2025年冬の映像もある)。