「本庄陸男」

1905年、当別町に生まれる。プロレタリア作家となるが肺結核に罹患、
「石狩川」(1939)にて当別開拓の歴史を描いた後に死亡。

当別は仙台藩の支藩・岩出山伊達家の伊達邦直とその藩士たちによって拓かれた。
「石狩川」第2章で、開拓地として「ナエイ」を割り当てられたが不適と判断した旨が記されている。
奈井江に碑があるのも、そういうつながりだと思う。

交渉の末、石狩の聚富に入植。しかし不毛の土地のため開拓を断念。
家老・吾妻謙の奔走もあり、当別に入る。

小説では、伊達邦直は「伊達邦夷」、吾妻家老は「阿賀妻」と表記されている。
第1章では、開拓に適した土地を苦労して探索する様子が描かれているが
聚富から「オヤフロ」を経て当別に至っている。「オヤフロ」とはたぶん、生振のこと。
このあたりは中央バス・石狩線・厚田線で歩くことができる。

第3章以降は、開拓使や藩に残った人々との折衝が中心であり、
当別がどんなところかは実はよくわからないまま小説は終わる。

彼らがあきらめた聚富は、後に淡路島からの兵庫県団体により開拓された。
やはり困難ばかりだったようだ。

1940-50年代に、当別駅から青山の奥地まで「当別町営軌道」(路線図は「当別町営軌道廃線跡を訪ねて」)があったが廃止されて久しい。「中央バス廃線倶楽部」には、昭和40年代に当別と浜益を結ぶバス路線があったと記録されている。青山の開拓の歴史は「青山の今昔物語」に詳述。
そして今、石狩・厚田・浜益から当別へのバス路線はない。当別ふれあいバス・青山線の終点・青山会館から先は、道路のみが続いている。

08/18/2021
当別の公園 – 06/26/2021