「波止場公園」
「波止場」と聞くと海を連想するが、ここは滝川にある「石狩川波止場」にちなんだ公園である。記念碑によると
「明治二十二年四月石狩川汽船会社が設立され、江別月形間を主に運行したものであるが、空知太に明治二十二年暮に、新十津川移民が来住し、屯田兵の来住があるところから翌二十三年五月官有地の貸下を受け、波止場出張所を置いた。」
ということで、難所・石狩川を越える渡し船の一つだったようだ。公園のそばに川沿いに延びる遊歩道がある。
「岩見沢レールセンター」
JR北海道が使用するレールを加工する一大拠点。もとは1899年に完成した北海道炭礦鉄道の岩見沢工場材修場であった建物で、歴史的にも貴重なものとされている。稼働中の工業施設なので一般公開はされていない。
「北本町小学校」
中央バス 鉄北循環線の中でも経由する本数の少ない北本町にあった小学校の跡地。記念碑が建っている。1972年に旧西川向小学校と統合して第一小学校となったという。
「国兼家住宅」
大正時代初期に建てられた雪国上流家庭に多く見られた建築様式であるが、道央圏では非常に珍しいものという。岩見沢市指定文化財。材木商・竹原繁二郎により建てられ、のちに市長を輩出した国兼家の所有となった。中央バス 鉄北循環線の中でも経由する本数の少ない北本町にある。
「宮尾直治」
小樽梅ヶ枝町に「梅広会館」という公民館がある。その正面に彼の像が立っている。中央バス 祝津線、赤岩線、梅源線などにその名を冠した停留所がある。
銅像裏の碑文。
宮尾直治翁は長野県の人。昭和十二年七月に小樽警察署長の職を辞してここを永住の地と定め梅ヶ枝郵便局長を勤めながら民生福祉の向上に没頭。爾来三十年間ひたすら社会への奉仕に徹して活躍されたボランテアである。保護司会民生児童委員協議会、保健委員連絡協議会、社会福祉協議会、国民健康保険運営委員会、防犯協力会、郵政協力会、共同募金会、連合町会その他社会福祉団体の長又は主要役更には赤十字社小樽地区済生会道支部の重要職など翁に冠せられた肩書は驚くべき数に上った。しかし一つとして空名にしたものはない。世のため、人のためとあらば晴雨朝暮を分たず奔走しつづけるその熱意と稀に見る円熟した人がらで、往くところ必ず人の心を動かすというまことに得がたい徳望家であった。昭和三十六年の藍綬褒章をはじめ、市の功労者顕彰など幾多の栄誉に輝き最後には正六位勲五等双光旭日章を授与されている。昭和四十年十月二十四日、八十二年の生涯を閉じられたが、市長はもとより翁を知る数多くの市民は心からこれを惜しみやがて敬慕の情が集り形となったのがこの像である。最初の祥月命日これを除幕し永く翁の徳を伝えることとした。
宮尾直治翁頌徳胸像建立期成会々長石橋猛雄
「石橋猛雄」氏というのは、おそらく昭和9年創立の石橋病院の院長および日本精神病院協会の会長でもあった人物と思われる。
「祝津」
小樽市の北側、石狩湾に突き出している半島状の陸地に位置する。おたる祝津たなげ会によると、古くから開けていたようで、江戸時代にはニシン漁で栄えたという。1793年に松前藩が進出、明治時代には青山・白鳥・茨木の三大網元が隆盛を誇った。
そばにある恵美須神社は1856年にできたという。
旧青山別邸の近くには旧祝津小学校跡がある。1876年開校、2013年閉校。
「進徳」
進徳地区は、茶志内と美唄の間にあり、美唄市民バス西線「進徳拓北線」の名前の由来にもなっている。国道12号線はこのあたりで「日本一長い直線道路」となる。
右下の沿革によると、岩見沢-旭川間の「上川道路」として明治19年に開削され、明治22年の拡幅工事の際に直線道路が志向された。平成2年、「滝川バイパス」の開通により、従来の27.7kmから29.2kmに直線区間が長くなり、鉄道で日本一長い直線の室蘭本線沼ノ端-白老間の28.736kmより長くなったとのこと。
国道の西側は農業地帯が広がる。
碑文。
「この地に先人が、開拓の鍬をおろしたのは明治中期で、千古不鋮の密林と湿地帯で用意な業ではなかった。
その中で稲作の有望性に着目し、美唄川に水源を求めて、明治末期には水稲の作付を見た。以来永い土地改良の歴史を経て、米の一大生産地として定着した。
昭和四十年代に入り、農業情勢は一大転換期を迎え水田転作、大型機械の導入等、近代化農業に即応する生産基盤の確立が緊要となった。
昭和六十一年、一心、進徳両地区の農業者相諮り、事業促進期成会が結成され、六年の歳月と十一億余りの巨費を投じて完工の運びとなった。その間、美唄市農業近代化センターをはじめ、関係諸機関の指導協力を戴き感謝に堪えないところである。
ここに、受益者の悦びと偉業を後世に傳えると共に、確立された生産基盤の上に豊かな近代化農業が築かれ、地域が一大発展を遂げる事を希い、竣功を記念してこの碑を建立するものである。」
国道の東側には「進徳東団地」があり、その先には南美唄地区が広がる。
「上美唄神社」
美唄市民バス西線「進徳拓北線」で上美唄に向かって進むと、「小川神社」という停留所がある。ここに建っているのが「上美唄神社」である。
左から3番目の碑の文。
「關口翁之碑
翁名茂平新潟縣中魚沼郡十日町人家世業醸酒翁幼有志氣明治廿七年
渡北海道占居虻田郡俱知安町十字開拓得良圃敷百町歩創立倉庫會社
水力電気會社及薬草會社等爲其社長利地方之労居多云翁鋭意努力不
止子此謂我瑞穂國以農爲本豈可不作稲田乎対象六年八月往来空知郡
美唄町投巨資設農場於曠寞野墾成畑五百餘町歩然往住有河川氾濫之
患所穫菽麥殆歸腐敗其間苦心不可勝言里人松田市兵衛氏等特以造田
爲念講之擴充其所説稱翁之素志肝膽相照而審察以自然分水猶未足全
感慨之状也規画石狩川揚水工事十一年二月爲官所許始起二六月竣功
通渠溝之區域達二百三十餘町歩竟能化美田衆庻安堵翁資性濶達明敏
於斯業成跡足以爲後範矣㑹穫疾以十五年七月卄三日没年六十三今茲
中美唄土功組合院胥謀将建翁碑干小川𧙈畔以不朽芳躅是報本反始之
義極爲善事乃敍梗概作銘曰
偉哉興業 致力朔邊 相地開荒 揚水感田 獻身益世 功績万全
茲勒貞珉 遺徳長傳」
碑文。
「遠く先人を偲び明治二十七年、上美唄町小川橋東北に二十一戸分の宅地割が設定されるが、低位湿地による土地条件が悪く他の開拓地より入植が遅れる。
明治三十七年に二十戸が入植、開拓の基礎が成されて以来、百年の歴史の中で開拓者魂を奮起し、協同・友愛で結ばれ、土地改良、治水事業に取り組み不毛のごとく思われた湿地や泥炭地が、今や美田と成しその名を高めている。
茲に、開基百年を迎えるにあたり、一0七戸の(約四三十九名)の住民をあげて先人の偉業功績を讃え、労苦を偲び感謝の誠を捧げると共に上美唄の未来を時代に託しこの碑を建立する。」
「大富の記念碑」
とにかく大富というのは不思議な場所で、岩見沢から旧北村を経て月形へ入ろうというときに、突如出現する美唄市の集落なのである。私が美唄市民バスの存在を知ったのも月形浦臼線で大富を通った時だった。一方、「大富」の名を冠する下記の碑は、岩見沢市のサイトで紹介されている。施工は渡辺石材とのこと。
「我が国従来の土地改良事業は 食糧増産 土地生産性を目的とし主に客土 暗渠排水 かんがい排水事業を中心として実施され 大富農協地域に於いても 開拓以来先人が冷水害と闘い幾多の困難を克服し 受益地一・三00ヘクタール余の基礎を築いたものでありその過程は如何に困難の途であったかと憶いおこすものである
時代の変遷と共に 農業をとりまく条件の変化に対応し 国の施策の方向も 労働生産性の向上 農業生産の選択的拡大 農業構造の改善に資する 近代的農業を展開するための基礎作りを目的とし昭和三十八年に圃場整備事業が創設された
土地改良の歴史の事実を認識理解し それに基づいて小江合を考えることは言うまでもないことであり その後の社会情勢も国民の需要構造の変化により過剰米により生産調整等 農業環境の急変に併せ当地区に於いてもこれに対応し 健全農業確立を目指し体質の改善が叫ばれた。これを受けて ときの組合長土田年平氏等が総合的な土地改良事業である農業基盤整備は必要不可欠であることを提唱し昭和四十八年十一月期成会誕生の運びとなったものである
当時は未だ本事業に対する理解が薄く 交換分合や工事費負担の問題等で反対が強く 賛同者は三分の一にも満たない状態であった茲来三ヶ月にわたり 期成会と農協の昼夜を分かたぬ戸別或いは部落別の勧誘 説得が行われ漸く三分の二の賛同者を得た中で昭和四十九年三月正式に大富地区圃場整備期成会の発足を見 推進本部長土田年平氏 期成会長武田貞光氏 事務局長氏家俊彦氏が当たり本事業推進に努力傾注したものである。
本地区は、北村豊正・美唄市西美唄 月形新生の三市町村にまたがり 面積七五八ヘクタール 受益者一七一名であり昭和五十年度事業着工となった 時期同じくして 水田利用再編対策と相俟って工事は夏期施工となり 昭和五十三年度には年間二三二ヘクタールの整地工を実施 全国第一位を記録したこともあり 諸般の経過を経て昭和五十六年度には面工事の完了を見たものであるが 引き続き豊正八・九両部落の附帯工区八三ヘクタールの整備と 大曲揚水機場の改修工事も実施し十二年間にわたる期間と約六十億円余の費用が投入され 事業の完了を見るに至ったものである
又 隣接の美唄市大曲 北村豊正十・十一部落に於いても急変する農業情勢に対応するため圃場条件整備の声が挙がり 昭和五十二年九月大富南地区期成会の結成を見 伊藤正次郎氏が会長として事業の推進に当たり面積四七七ヘクタール 受益者一0六名を以って換地も進捗し 工事費五十五億五千万円余を以って昭和六十年度面工事の完了を見るに至ったものである
両地区には 実に百拾五億円余の巨費がとうにゅうされ 新しい時代に対応する基盤が確立されたものである この間に於ける関係受益者の絶大なる努力と協力と理解があったことは言うに及ばず 農林水産省 北海道庁 空知支庁 美唄市 月形町 北村 北海土地改良区 空知大富農業協同組合等関係機関団体の強力な支援は特筆すべきものがある
いずれにせよ 先人の開拓せるこの偉大なる耕地を継承し 緑豊かな農郷造り 又食料生産基地としての使命は重大であり 幾多の障害 苦難を超越し未来への一大飛躍へ通ずるものと確信する
茲にこの事業の実現に最善を尽くされた事業促進期成会役員諸氏の功績を称え 更に地域の発展を願い 後世にこの偉業を伝達すべく この碑を建立するものである」(撰文は当時の北村長となっている。)
「山形」(美唄)
美唄の端、大富から上美唄線を進んでいくと、「山形」という集落に出会う。文字通り、山形県からの入植により開拓された地である。記念碑が建っていて、往時の苦労をしのばせる。
「山形団体開拓記念碑文
吾等が祖先二十一戸、明治二十七年山形県より団体移住してはや一世紀困苦欠乏の歴史を惟うに昔日の感あり
この間幾多の先人を黄泉に送るも艱難辛苦の日々を思うとき感謝と追悼の誠を捧ぐるものなり。風水害に見舞われつつも泥炭地の改良研究に腐心。さらには客土運搬と苦節幾星霜衆望の美田地にあまねくして未来にはばたく夢を育む。山形団体はこの美しき唄の町に輝かしき開拓の歴史を残し、その名の永久に語りつがれんことを信ず。茲に労苦を共にせし在住者の名を刻み開拓の記念碑とするものなり」
山形県からの移住に関しては「北海道移民にみる連鎖移住の構造 -美唄市山形地区を例に-」という論文が公開されている。
「光珠内」
美唄市の光珠内は、1891-4年にかけて屯田兵によって開拓が始まった。兵科は砲兵だった。
線路の北東側を奥地へ進むと「地神五柱之大神」が祀られている場所がある。
線路の西側に入っていくと「拓北開拓記念碑」がある。
開基五十年の碑文。
「昭和十四年天塩拓殖実習場第一期修了生旧名が、美唄原野を開拓し食糧増産の使命を担って入植、地名を拓北と称し開拓の鍬を入れ、続いて二期三期生も入植、然し開拓の道は厳しく春には猛烈な野火の襲来、昭和十七年には農家二戸と共同作業所を灰塵にきし悲惨を極めた、こうした苦難にも屈せず開墾に全力を尽くし、又戦争に次々と招集され苦境の中老人と女手で守り抜き終戦により開拓を再開する、昭和五十年代に至り農家経営も安定するに至った。かえりみて五十年に亘りご指導を賜った各関係機関に感謝の意を表し、更に困難を克服開拓に一生を捧げられた十数名の霊に謝意を表し御冥福を御祈りいたします。
今後我等は尊い開拓精神と不屈の愛郷心を受け継ぎここに風雪五十年を記念して碑を建て当時を偲び開拓の一頁を刻し後世に傳う。」
鉄道の東側には溜池・調整池も多くみられる。
光珠内駅にも碑が建っている。
碑文。
「屯田兵入植以来国鉄駅の設置は住民の願望であった
幸に町の総合開発計画と町民の協力 特に関係住民は岸本保氏を委員長とし 資金労力奉仕等総力を傾注 困難を克服し駅舎をはじめ すべての施設を完成 道内唯一の請願駅として設置された
山下久三郎氏労役奉仕指導中 列車に衝突 尊い犠牲となられた」
「峰延」
峰延は美唄南部に位置し、三笠・岩見沢とも接するエリアである。美唄市のサイトによれば、このあたりは「沼貝」と呼ばれていたようだ。駅から近い場所に小林篤一翁顕彰碑がある。
「この北の大地北海道の農業開拓の歴史は、冷災害の克服にあった。大正二年の未曾有の大凶作によって農民の生活は悲惨を極めたが、この窮状を打開し、農業者の経済の拠り所として、各地で産業組合設立の機運が高まった。明治二十三年兵庫県に生まれた小林篤一翁は同四十三年岩見沢市峰延原野に入植、この時二十一才。大正三年には三十六人の農民と結集して峰延産業組合を設立し、後の連合会組織の基盤を築いた。大正八年には単位吹き米の経済活動の範囲を超えた連合会組織を創始したが、経営は前途多難な時代が続いた。この難局を乗り切るため会長として自ら経営に心血を注ぎ、現在のホクレン農業協同組合連合会の基礎を確立した。また、昭和二十四年には報徳普及の基盤となる北海道報徳社を設立し、千五復興期の社会道義、経済更生に挺身し、心田開発と北海道農業の発展に多大なる功績を残した。その絶大なる偉業を、二宮尊徳精神をもって実践したことを顕すため、ここに小林篤一翁顕彰の碑を建立し、道徳と経済の調和、一円融合生々発展の願いを刻み、北海道の二宮尊徳、北海道の農協の父として敬慕し後世に伝えんとする。」
駅近くには峰延小学校跡の碑もある。
少し奥に入ると峰延神社があり、近くに開基百年の碑がある。
更に奥にある「三号溜池」には複数の碑が建っている。
「茶志内」
美唄の北部に位置する茶志内は、1891-4年にかけて屯田兵によって開拓が始まった。兵科は工兵だった。
開村記念碑は、茶志内神社の境内にたっている。
「三井美唄炭鉱」
美唄市のサイトにある「美唄の炭鉱の歴史」によると、美唄駅からは三菱美唄炭鉱へ向かう美唄鉄道、そして三井美唄炭鉱へ向かう「南美唄線」という引き込み線があった。三井美唄炭鉱により南美唄の集落が形成され、閉山となって久しい現在でも美自校が南美唄線を走らせている。周辺には三井美唄互楽館の跡などが残っている。廃屋は多いが、まだまだ多くの人々が生活している。
バス停と街の様子。
「東明駅」
美唄中心部からアルテピアッツァに向かう途中に「東明駅」の跡がある。三菱鉱業美唄鉄道線の駅跡である。
1972年に廃止後にサイクリングロードができ、それも放置されたというのは夕張鉄道に対するサイクリングロードと同じで、道内にあちこち見られる。
美唄鉄道は、盤の沢、我路、美唄炭山を経て常盤台まで約10キロ山奥に進んでいたが、現在の市民バス東線は東明駅より少し先のアルテピアッツァが終点である。
「スクールバス混乗便」
美唄市の市民バスは東線と西線に大きく分かれ、前者はフラワー観光バス、後者は美唄自動車学校(美自校)によって運行されている。さらに美自校は独自に南美唄線を走らせている。
この西線について、美唄市のサイトでは10路線もの「スクールバス混乗便」が設定されており、路線図まで掲載されている。学校が長期休校期間中は運休し、代わりに上美唄線と茶志内・中村・沼の内線を運行するという。
これらの「スクールバス混乗便」は市中心部へ向かうのが朝の1便、帰りは2便というのが基本形だが、これらの路線のためのバス停は設置されていない。生徒さんなど決まった人しか乗らないので不要なのだろう。逆に季節路線である上美唄線と茶志内・中村・沼の内線にはバス停が置かれているから面白い。このため、「スクールバス混乗便」のうち、この2路線および常設の進徳拓北線とオーバーラップする区間については、これらの路線の停留所がみられる。「スクールバス混乗便」も使用するのだろうが、そのために置かれているわけではない。バス停を見たいだけなら歩くものではないが、3つの路線を歩いてみた。
「茶志内線」
茶志内より滝川・奈井江方向に寄った国道12号線上の「西3線入口」という場所から南下し、農業地帯をまわって茶志内駅を経て美唄駅に至る。
帰り便の終点は「西3線入口」ではなく「3線5号」。国道からは2km以上奥に入った場所である。
上の写真には「3線5号」に来た最終便のバスが帰っていくのがうつっているが、降りた人はいなかった。
「日東線」
茶志内に近い国道12号線上の「兵村北」(おそらく中央バス・滝川美唄線の「兵村北」)を出て奈井江・滝川方向へ進み日東町「栄町」へ。そこからふたたび美唄方向へ戻っていく。地図にある「7線」「6線」「兵村」は滝川美唄線、「栄町」は市の季節路線「茶志内・中村・沼の内線」の「日東」であろうと思われる。
「峰延線」
この線にはなんと峰延線2、峰延線3、峰延線4と3路線が設定されている。2と4を歩いてみた。地図では近距離に見えても、実際はキロ単位での歩行となる。
「専大バス停」というのは国道沿いに位置するが、専大のあった場所は1km以上山側である。専修大学北海道短期大学は1968年に開校したが2011年度に学生募集を停止、2017年に廃止された。
「岡山から幾春別へ」
三笠市の都市計画によると、市内は6つの区域に分けられている。
岩見沢から中央バス・三笠線に乗ると、まず「岡山・萱野地区」に入る。岩見沢美唄線も含めると7つの路線バス停留所がある。エリア内にはイオン三笠店もある。次にくる「三笠地区」が市の中心を含み、市役所や病院がある。明治時代に空知集治監が設置されて開拓が進み、市来知神社には初代典獄・渡辺惟精の碑がある。
「一八八一年(明治十四年)空知集
治監創設をこの地に定め初代
典獄となり空知郡長等の要職
を兼ね在任九年 幌内炭鉱の
採掘道央地方の開発に当る
村内に殖産文化の施設を興し
住民と辛苦を共にして本市開
発の礎を築く 離村に際し寄
付した私財は村の財政を豊に
し永く住民に福祉をもたらし
た 一八四六年岐阜県に生れ
一九00年東京に没す」
続いて「北海盆踊り発祥の地」を示す碑。
裏の碑文(句読点はそのまま、改行位置は変えてあります。)
「山あいに雄々しい姿を残すズリ山、その石塊の一つひとつに思いを寄せた時、百数十年の時を越え、先人達の町造りの槌音が聞える。
明治、大正、昭和と、近代日本の産業振興を刺させる資源として明治元年、未開の地幌内で発見された石炭を、採掘、運送すべく、明治12年、幌内炭鉱が開鉱され、明治15年、空知集治監が開庁、同年、北海道で最初の幌内鉄道が開通した。明治18年、幾春別炭鉱が開鉱し、熊本、徳島からの千百余名に続き、東北、北陸地方の人達を中心に集団移民の時代を迎えた。当時市来知村は内陸開拓の拠点としても、札幌以東随一の町として繁栄した。
豪雪酷寒の地での厳しい生活や、過酷な労働の日々を、互に助け合い喜愁共に分かち、協同の力で今日の三笠の礎を築いてきた。
このような暮の中にも、町中が楽しさで狂気沸立つ時があった。巡る季節の中、北国の短い夏を惜しみ、各部落で夜を徹して老若男女が共に唄い、共に踊った盆踊りです。
中でも、ヤマの男の力強い踊りで知られた幾春別の盆踊りは、櫓を幾重にも囲み、二万余の人出で賑合う近隣一の大盆踊りでした。この幾春別の盆踊りで、古くから唄われたべッチョ節は、過酷な坑内労働の中から生まれ盛んに唄われ、又、踊られたものでした。
このべッチョ節を、昭和15年、当地を訪れた北海道民謡界の重鎮、今井篁山先生が整査し、北海炭坑節として広く世に出し、昭和32年、北海盆唄としてレコード化された。平成4年、北海道教育大学教授で、北海道民謡連盟最高師範でもある、吉田源鵬氏が日本民俗音楽大会で、ベッチョ節を元唄とする北海盆唄の発祥の地は、三笠の幾春別であると発表され、公的に認められた。
平成5年、この北海盆唄発祥の地三笠で第一回北海盆唄全国大会が開かれた、平成24年、第二十回大会を記念し、三笠民謡連合会一同の和をもって、この日を建立し寄贈する。」
そんな「三笠地区」も東側の美園町あたりでは賑わいを失う。
次は「唐松・清住地区」。旧幌内線の唐松駅が保存されている。
奥に進むと次第に人気がなくなってくる。
そして「弥生・幾春別地区」に至る。
もっとも、完全な無人地区はなく、無住のアパートもすべての窓に板が打ち付けられ、下草も刈られているなど、完全放置となっていない点は印象に残る。
残る二つのうち「本別・桂沢地区」には路線バス等はなさそうだが、三笠鉄道村のある「幌内地区」には市営バス・幌内線が走っている。
「その後の碧水市街」
2022年3月末、中央バス・滝川北竜線は廃止となった。その終点が「碧水市街」という停留所だった。
「碧水市街」は集落の中にあり、深川-留萌間を結ぶ国道233号からは少し離れている。国道の方には札幌からの「高速るもい号」、沿岸バス・留萌旭川線の「碧水」停留所がそれぞれ設置されている。
では、「滝川北竜線」廃止後の「碧水市街」はどうなったのか。「もうひとつの「留萌線」を歩く」旅で碧水を通った際に立ち寄ってみた。
「中央」の文字は消されているが、たしかにバス停は現存していた。北竜町が追分市街までのバスを代替運行していたのである。周囲の様子も以前と大きく変わった様子はなかった。旧国鉄札沼線時代の新十津川-石狩沼田の区間には碧水駅があったというが、この近くだったのかもしれないと思った。
「追分」
安平町追分は、室蘭本線と石勝線(かつては夕張線)の交差する鉄道の要衝であるが、バス路線に関しては一種の空白地域といえる。岩見沢からの中央バスは三川駅通までしか来ないし(2022年9月30日以降は由仁駅前までとなった)、あつまバスは早来駅から南へはルートがない。安平町営バスのみが追分と安平町の他地域を結んでいる。かつて札幌-釧路間に寝台特急があったときに、札幌から11時に出発すると追分で30分以上停車、その間人気のない駅構内にこうこうと明かりがついていたことを思い出す。
「明治26年、室蘭線と夕張線の開通で追分停車場が開業すると、多くの人々が入地してきた。
その中で子供たちの教育の必要性を求める機運の高まりから、町の有志の手で寺子屋式の簡易な教育所が、この場所で始まった。
児童18名、女教師1名であった。
教育の発祥の地としてその名を伝えるものである。」
「早来から沼ノ端へ」
JR早来駅から沼ノ端駅までは約15kmの道のりである。ここはあつまバス・沼ノ端線、苫小牧線「緑小学校前経由」、「日軽金前経由」が通る国道234号上のルートであるが、物流の大動脈でもあり大型車の通行が多く、なかなか歩きにくい区間である。JR室蘭本線が並行しており、途中に「遠浅駅」がある。沼ノ端の近くで日高横断道の出入り口に遭遇する。
碑文
「明治三十一年五月、山形県人大島清吉氏が、国有未開地三百二十ヘクタールの貸与を受け、広大な地に牧場を開設して遠浅地区開拓の起源となる。当時、昼なお暗い、巨木が生い茂る原始林の開墾は厳しく、また飢えと寒さとの闘いでもあり、その生き様は、想像を絶するものであった。以来多くの、先人、先輩の入植もあって、幾多の困難の中に今日の豊かな基盤が創り上げられた。
今、私たちは、この素晴らしい遠浅に在って、百年という尊い歴史の節目を迎えるに当たり、ここに記念碑を建立して、先人たちの溢れる開拓魂と、弛まぬご労苦を心から讃え、そして遠浅二世紀への躍進の決意を新たにするものである。
平成十年十月十日
遠浅自治会 銘記」
碑文
「井上儀七翁は明治二十七年九月二十日北海道日高国萩伏町で出生される。明治四十三年十六歳にして様似郵便局に勤務、後鵡川郵便局に転じ、精励恪勤上司の信頼も厚く、昭和九年その卓越した能力を認められ、遠浅郵便局長に補され、昭和三十八年六月更新に途を開いて勇退されるまで、五十三年の長期に亘ってその生涯を郵政に捧げ、郵政大臣を始め数数の表彰を受けられた。
昭和四十五年五月十六日七十六歳を以って逝去されるに当たり、国は従六位勲五等瑞宝章を贈りその功績を称えられた。在町中の翁は一意住民の和と郷土の発展に熱意を傾注されその誠実にして真摯な人格は郷党の敬慕する処であって、遠浅自治会長を始めとし、町公平委員、町遠浅支所長、町史編集委員などを歴任され、町の行政に貢献された。
亦、翁は青年時代より俳句に精進され、雨仏と称し、遠浅に在りては、やちはん句会をつくり後輩の指導と文化の向上に尽力された。
茲に雨仏師の一周忌に当たり、同人相謀って句碑を建立し、心からなる敬意と感謝を捧げてその遺績を偲び、これを顕彰する。
昭和四十六年五月吉日
早来町長 磯部義光」
日高横断道と国道234号のインターチェンジ付近を歩いた動画。
「熱郛駅」
1972年発行の「北海道 駅名の起源」によると、1903年11月3日、北海道鉄道の駅として開業。翌年に「歌棄」と改称、その2年後に再度「熱郛」となったとある。アイヌ語の「クンネ・ネッ・ペッ」(黒い標木の川)がつまったのが名前の由来という。2030年度に予定通り北海道新幹線の札幌延伸が完成すると、この駅を含む並行在来線はすべて廃止の方向で話が進んでいる。「道の駅くろまつない」から徒歩で行ける距離である。
「厚真から鵡川へ」
厚真の中心部から太平洋岸に抜けるメインルートは、上厚真を経て浜厚真に至るものであるが、もうひとつ、鵡川に抜ける道がある。このルートは交通量も少なく、バスは平日2往復のあつまバス・鵡川線が走るのみだが、独立した農村集落が点在していて興味深い。約20kmの距離があり、一気に歩くと少し疲れる。
軽舞は120年以上前に開拓が始まった農村で、落ち着いた佇まいであり、簡易郵便局もある。
その先の豊丘は厚真町における「水田発祥の地」とのこと。
横の碑文
「明治二十五年四月佐賀県人山口良人ほか十三名が この地に入地開墾に努め 厚別産赤毛の種籾で 水稲の耕作をしたのが 本町稲作の始めである
明治二十七年岡田狐鹿が この地一帯の払い下げをうけ農場を開き 同二十九年に青木末吉 大坪与四郎 吉井三次郎等の入地に続き移住者が多くなり部落を形成するに至った
この時期より この地域を始め町内全域に水田の開発が進み 今日「北海道一のあつま米」の産地として発展した
ここに本町開基八十年を迎えるに当り この地を厚真町水田発祥の地として この碑を建立し 先人の偉功を顕彰する
昭和五十一年九月吉日建立」
鹿沼まで来ると鵡川はもう近い。
碑文
「明治二十二年以来広島県人大江常三郎 植木清吉 清水徳一郎を指導者として当時月寒方面に居住していた広島県人福井県人が入鹿別原野に入植し開拓の鍬がおろされたのである
以来多くの先人そして後継者が寒気と飢えの厳しい自然条件のもとで計り知れない苦難に耐え忍び 今日の稔り豊かな理想郷として鹿沼の発展を見るに至ったのである
いまここに開基百年の大成を祝い繁栄の基礎を築かれた先人の功績を称え 感謝の念をこめ記念碑を建立し後世に顕彰するものである」
「浜厚真」
厚真の中心部から厚真川に沿って下っていくと、上厚真という集落があり、さらに太平洋岸まで下ると浜厚真に出る。あつまバスの苫小牧線(上厚真経由)、浜厚真線がこのルートを通る。「漁業団地前」という停留所もあり、漁業が盛んな様子である。一方、浜厚真にはJR日高本線の駅があり、苫小牧・鵡川に通じている。浜厚真駅は厚真町の唯一の鉄道駅であり、鉄道マニアは厚真といえばここしか知らないかもしれない。浜厚真駅周辺はあまり人気はない。
浜厚真駅の様子。
裏側の碑文
「浜厚真八幡神社の由緒
このたび 本地域が 苫小牧東部大規模工業基地の接点として 開発されるのに際し著しく荒廃した神殿及び境内を 氏子一同で整備するにあたり 由緒を後世に傳えます
記
一 明治三年 青木与八氏が厚真川河口左岸に祠を造り 八幡大神を奉斎しました
一 明治十二年 八幡神社を造営しました
一 大正十三年 髙津熊三 山本覚造 園田彌十郎 三宅保太郎 沢向春松 金崎福太郎 蛯子与吉 蛯子市松等は主唱して三宅保太郎氏宅右側に移転改築をしました
一 昭和九年 御神体紛失に伴い 木戸孫平氏が新らたに奉献したが 昭和六十一年三宅芳一氏が 旧神社跡地より元の御神体(天下一藤原政重の銘のある青銅製の手鏡)を発見 保管してあったものを併せて本斎しました
一 昭和二十一年 川上健次郎氏が現在地を寄付され 会館兼用として社殿を建立しました
一 昭和三十九年 開拓婦人ホームを建築したので 獨立した社殿の改築をしました
昭和六十三年八月十四日之建
氏子一同」
「厚真川の改修」
厚真町といえば、2019年の北海道胆振東部地震での被害が記憶に新しいが、もともと町内を貫く厚真川の氾濫に手を焼いてきた地域でもあった。内陸部にある町の中心街に近い場所に「厚真川改修記念碑」と「開基七十周年 振内用水組合」の碑がある。
碑の裏側にある碑文。
「この地域は葦茂る一面の湿地帯であったが明治初期 先人達によって開拓の鍬がおろされ言語に絶する苦難の農業経営が始められた 先人達は灌漑用水の開設によって地域の農業が一大飛躍することに着目し明治三十八年十月組合長岡部福太郎氏ほか三十九名によって振内灌漑用水組合が設立されただちに北海道廳に用水路の開設方の強力な請願が続けられたが翌年二月北海道廳長官男爵園田安賢氏により同開設の許可書が交付され 直ちに井上歌治を請負人として契約がなされ五年の歳月を費やして明治四十二年全用水路が完成し受益面積三百余町歩となり現在のこの地域の農業の基礎が出来上ったのである 大正二年厚真川の大洪水により市街地は勿論のこと農家の流出も数多く農地も一瞬にして泥沼と化しこの年大凶作に見舞はれ農業経営は苦難の道にたたされたのである その後もしばしば洪水に見舞われ全村民の悲願であった厚真川改修工事が昭和十一年に始められ昭和十八年に完成されたのである 昭和十八年この工事完成後組合は厚真土功組合に加入 同二十七年土功組合が解散厚真村土地改良区と改組され振内灌漑用水組合は第六区と改稱したのである 昭和三十七年国営かんぱい事業着工同四十四年に頭首工 同四十六年に厚真ダム完成続いて同年四月六区幹線水路パイロット合併受益面積六百六十町歩となる この工事と併せ進められていた支線延長五千米は組合所有地を売却し総工費壱千六百万円を投じ昭和四十九年に完成を見たのである
ここに先人の偉業を讃え組合創立七十周年を記念してこの碑を建立したものである
昭和四十九年九月吉日」
「鹿追の鉄道」
その昔、鹿追には河西鉄道、北海道拓殖鉄道、十勝鉄道といった鉄道が走っていた。これらの路線網については、熊本大学の研究などに詳しいが、長い間おおむね放置されていたに等しい。しかし、最近になって鉄道遺跡の発掘・観光地化が進んでいるようである。
この交差地点に関しては、故・堀淳一氏の手による「北海道 鉄道跡を紀行する」(1991)において紹介されて久しい。その232ページに掲載されている当時の様子は、こんな感じだったようだ。
「暗鬱な切り通しの中に押しだまってぬうっと立つ、真っ黒に煤けた石の柱の列。そこから襲ってくる、背筋を震わせる鬼気-」「どっしりとどす黒く腰を据えている橋脚と橋台は、あちこちから覗いてこちらを窺っている妖怪変化どもの大棟梁か」と描写されているのであった。
現在、鹿追は豊かな農村であり、観光地としても勢いを増している感じがする。この交差地点も大きな公園の一部となっており、地元の人たちがBBQをしていたり作業員の方々が精力的に草刈りをしていたりするのだった。
「東ヌプカウシヌプリ」
十勝・鹿追ジオパークにあるこの山はナキウサギや風穴で有名である。頂上から奥に進むと「ガレ場」(岩場)となっているナキウサギの生息地があり、多くの撮影者を見ることができる。
風穴は登山道のあちこちで見られる。永久凍土の影響により、夏でも冷風が吹き出している。
「美々ワールド」
工業都市・千歳にある工業団地のひとつで、エリア内に公立千歳科学技術大学を擁する点が特徴である。美々といえば、その昔、新千歳空港の「トラップ駅」とも言われた旧JR美々駅(現・信号場)が想起されるが、その場所は工業団地からはやや外れている。あつまバス・千歳線には、「美々ワールド入口」という停留所がある。
「新千歳空港・南千歳」
日本で最大級の発着数を誇る新千歳空港。交通・物流の大動脈であり、周辺には大きな道路がいくつもひかれ、多数の車両が往来する。特に新千歳空港から(旧)千歳空港のあった南千歳付近のエリアは、札幌方面、苫小牧方面、夕張・十勝方面からの道路が交錯している。他方、このエリアを徒歩で行き来しようという者はごく少ない。
空港出口のトンネルをくぐる。
「新川」
子供の頃「発寒川」だと思っていた「琴似発寒川」と、北大から流れてくる「琴似川」が合流して「新川」となる。囚人労働によりつくられたという。
石狩川へ蛇行して水害のもととなる発寒川水系をなんとかするべく、まっすぐ海に流すように人工的につくられたものである。途中、本物の「発寒川」が分離する。
新川の始まり「西陵橋」付近は、中央バス・北72 新川線がまさに新川沿いに走る。一方、「西陵橋」を渡る路線には西71 新川八軒線などがある。
このあたりから桜並木で知られる「新川緑地」が続き、手稲の「前田森林公園」まで続いている。この公園は北72の終点であり、この先へ進むのは1日1本の石狩新港西線しかない。
「石狩湾新港」
石狩湾新港は、1968年の「第3期北海道総合開発計画」において建設が決定、1973年に着工、1982年8月第一船が入港した(北海道開発局)
「留萌市史」で読んだ記憶があるが、函館、小樽、室蘭は岬に守られた天然の良港であり、最初に開発されたという。しかし、船舶の大型化に伴って手狭となり、地形がアダとなって拡張もできなかった。そこで、大きな湾に大規模工事を行って港を建設することとなり、この動きの中でつくられたのが、石狩、苫小牧、留萌なのだそうだ。
石狩湾新港管理組合によると、5つの地区に分けられている。旅客船の運航はないので、バスで埠頭へ行くことはできないが、中央バス・石狩新港線、麻13 花畔団地線により花畔ふ頭の側、石狩新港団地線、石狩新港西線により樽川ふ頭の側に終点を有している。
新港エリアの産業集積はすさまじく、大量の車両交通があるが歩行者はいない。
新港団地を歩く動画。
「発寒川」
個人的には、かつて住んでいた八軒にあるのが「発寒川」だと思っていたが、あれは「琴似発寒川」というのだそうだ。
いわく、「琴似発寒川はもともと発寒川の一部であり、1本のつながった川でした。しかし1887年(明治20年)に新川が開削されると、新川を境に琴似発寒川と発寒川に切り離されました。」ということで、
自分が子供の頃に住んでいた時には、すでに「琴似発寒川」だったわけだ。みんな単に「発寒川」と呼んでいたはずだが。
小学校の地域史で、「発寒川は現在、下流で新川になったが、昔は石狩のほうへ蛇行していました」と習ったと記憶している。
しかし実際はそうではなく、伏古川とともに茨戸川に合流、茨戸川は石狩川から切り離されているから、最後は放水路で石狩湾へ、というコースなのであった。
というわけで、新川を出た発寒川は北東へ向かい、石狩南高校付近にて石狩市と札幌市の境界線となる。中央バス・14 花川南団地線などが川を渡る。
更に東側では、石狩の「緑苑台」と札幌の「屯田」の間を流れる。「郷土誌から読み解く地域歴史情報」によると、「緑苑台」は平成初期にできたニュータウンとのこと。この地区を通るバス路線は、中央バス・麻08 緑苑台線である。
「福移」
札幌の北東端、北区あいの里と東区中沼の間に位置している。
このためか、北区と東区の双方のサイトで紹介されている。
もとは篠路村の一部で「当別太」と呼ばれ、明治時代に福岡藩士たちが移住、開拓が進められた。
ここは石狩川のつくる泥炭地・湿原が広がっており、水害にみまわれることも多かったという。
現在は、北区側が農地、湿原であり、東区側は廃棄物・残土処理の用地となっているようである。「篠路福移湿原」は環境省の「重要湿原」とされている。
福移地区を通る唯一のバス路線は、中央バス・東69 北札苗線である。
「茨戸」
ここはもともと石狩川の蛇行していた場所であり、明治時代には水上交通の要衝として栄えたという。
北区のサイトによると、一種の宿場町の様相を呈していたと。札幌中心部からは創成川も通じており、運河として利用された。
しかし、しばしば水害が起こるため石狩川の河川改修が行われ、1923年に蛇行部は「茨戸川」として切り離された。
1958-1971年には「茨戸油田」が開発されたが短命で終わった。
吹雪の中、東茨戸にて伏古川を望む。
「篠路」
「篠路白書」によると、江戸時代から開拓がはじまっていたそうだ。
JR篠路駅は昭和時代の駅舎が使われている。苗穂駅が高架化した今となっては貴重だと思う。
駅付近には昔ながらの商店や小工場、倉庫群がある一方、宅地化も着実に進んでいる。
今後、篠路駅の高架化・駅前再開発がすすめられていくようだ。
篠路駅にはバスの乗り入れはなく、中央バス・麻27 篠路線、栄21 栄町・篠路線などの「篠路駅前」は駅から少しだけ離れた場所にある。
付近にはかつて歌手・「篠路圭子」の看板があった。驚嘆すべきことに「しのろ」ではなく「しのじ」と読む。篠路出身である。
札幌川の隣駅の「百合が原」近くには「烈々布会館前」という停留所がある。「烈々布」は「れつれっぷ」と読む。アイヌ語に由来する地名というが、現在は公式地名としては使われていない。
北区のサイトでは「凍てつく原野をほうふつとさせる」といっているが、ここを訪れた日はまさに吹雪で「烈風」をくらった感じではあった。
伏古川をわたって当別側の隣駅「拓北」は、かつて「東篠路」駅といった。
「中沼」
東苗穂地区よりさらに東、モエレ沼公園あたりから「中沼町」に入る。ここは旧篠路村の一部だったという。もともとモエレ沼の北西地区が地主の名前から「中野」と呼ばれる一方、モエレ沼の東側は「沼ノ端」という名称だった。この2つを合わせて「中沼」としたそうだ。中央バス・東76 丘珠北34条線、東61 丘珠線の「中野中央」、東69 北札苗線の「北沼の端」は、これら旧地名の名残なのであろう。
中沼の東奥はリサイクルセンターや産廃処理関係の施設が並んでおり、さらにすすむと福岡移民の開拓地・福移地区に至る。福移は北区と東区にまたがっており、江別に接している。
「豊畑」
東雁来の奥、雁来新川流域一帯は「豊畑」と呼ばれており、東68 伏古札苗線、東6 札苗線には4つの停留所がある。もっとも「豊畑」という住所は存在しないようであり、先の停留所も、「豊畑」は「中沼町」、「東豊高校」「豊畑神社」「豊畑東」は「東雁来町」が住所となっている。地区名の由来となったのは豊畑神社ということで、豊かな畑をつくりたいという願いが込められているという。
「モエレ沼公園」
イサム・ノグチ設計によるこの公園は、188.8ヘクタールにもおよぶ広大な敷地を有する。南側のメインゲートには中央バス・麻26 麻生東苗穂線や東6 札苗線で行けるが、冬には公園内には入らず、手前の「モエレ沼公園東口」までしか到達しない。ならば冬は無人になるかといえばそうではなく、雪遊びをする家族連れでにぎわっている。一方、北側にも東76 丘珠北34条線、東61 丘珠線が通る「モエレ沼公園西口」停留所があるが、西口自体は冬季は閉鎖される。
「駒岡清掃工場」
中央バス・南92 駒岡線で駒岡地区に入ると、最初に出会うのが1985年竣工の清掃工場である。すでに30年以上稼働しており、現在建て替え計画が立てられている。
近くにある「駒岡保養センター」の入浴施設は、ここの余熱を用いて湯を沸かしている。
「恵開拓記念碑」
中央バス・南92 駒岡線は、ほとんどの便が「駒岡小学校」を終点とする。
その先、駒岡の最奥に建つこの碑まで来るのは、1日1便。
まわりは雑木林が続いており、人気はない。
「駒岡」の名前は、開拓団の多くが真駒内と西岡から来たことによるという。
開拓が始まったのは、戦後の1947年だった。
「石山陸橋」
「石山」の歴史は、明治初めの札幌軟石の採掘に始まるという。
1909年に馬鉄、1918年に定山渓鉄道が開通、「石切山」駅が置かれた。
今の国道453号(旧「道道512号札幌支笏湖線」)と「平岸通」の交差するあたり、「石山陸橋」というのは、もともと鉄道の跨線橋だったという。
このあたりが軟石運搬の難所だった(「石切の里いしやま」)。
中央バス・真102+真106+真107+真108 滝野線も通っているが、歴史的にみるとやはり、じょうてつバスのエリアと感じられる。
「アシリベツ」
「厚別」と書いて「アシリベツ」とも「アツベツ」とも読む。
どちらも「厚別川」に由来している。
もともとは上流の清田区が「アシリベツ」だった(「あしりべつ郷土館」)。現在も「あしりべつ病院」とか「厚別神社」というものは清田区にある。
一方、中流の厚別区の「アツベツ」のほうは、はじめ長野県からの移民により開拓が始まったため「信濃」と呼ばれており(「厚別区の現況・歴史」)、「信濃神社」は厚別区にある。
鉄道の「厚別駅」ができたことにより、しだいに「アツベツ」というようになったという。
厚別川の源流は、南区・空沼岳のあたりで、滝野には「アシリベツの滝」がある。
札幌の開発では当初、澄川にあった森林から木材を供給していたが、1879年、さらに奥地の滝野に「厚別水車器械所」と呼ばれる水力を用いた製材所を建設。10年ほどにわたって大いに栄えたという。
中央バス・真106 滝野線で滝野すずらん公園に向かうと、途中に「器械場入口」という停留所がある。
「滝野霊園」
ここは中央バス・真108 滝野線の終点。平日3便、土日祝4便。1981年開園。
滝野霊園にはモアイ像、安藤忠雄が設計した頭大仏殿がある。
霊園の外は、荒地である。
「藻南橋」
中央バス・103 滝野線は、「石山」地区と「川沿」地区の間、「藻南橋」で豊平川を渡る。
この区間、「石山陸橋」と「川沿10条2丁目」までは2kmあまりにわたって停留所がない。
付近にある「札幌軟石ひろば」はかつての石切り場、「藻南公園」には「おいらん淵」の伝説がある。
曰く、明治末に薄野遊郭の花魁がここで身投げしたという。
真駒内、石山、川沿などは、じょうてつバスのネットワークが充実している。
「澄川の地形」
五輪通(道道82号)から「澄川」地区を見下ろすと、すり鉢状の谷に住宅が並んでいるのがわかる。
このあたりは、大きな道から出てしまうと、札幌らしからぬ曲がった道が多い。
「五差路記念公園」というものもあり、かつて五差路があったことを示すというが、実際の五差路も少し離れた場所にある。
中央バス・澄73+澄74 西岡環状線はこの五差路を南北方向に通過、付近に「澄川6条10丁目」停留所を有する。
一方、真105 真駒内線、南81 西岡線などは、この路線の上方を立体交差する五輪通を通り、同名の「澄川6条10丁目」停留所を有する。
2つの「澄川6条10丁目」、平面的には似たような場所ともいえるが、立体的には全く異なる位置にあり、双方を手軽に行き来することはできない。
立体交差の近くにある斜道は行き止まりである。
札幌の不動産・歴史のブログによると、澄73/74が通っている道がいわゆる「器械場道路」であったといい、この道はアシリベツの旧・水車器械場(現・滝野すずらん公園)に通じている。
バスはもちろん器械場までは行くことはなく、澄川地区を出るとサッサと西岡水源地へ向かう。
「羊ヶ丘展望台」
この有名な観光スポットには、福住駅から中央バス・福84 羊ヶ丘線が通じている。
終点「羊ヶ丘展望台」停留所で降りると、まず入場料500円を徴収される仕組みである。
なにしろ、この時点で展望台に入ってしまっているわけだから、当然の処置といえる。
人生の半分?を札幌で過ごした者にとっては、特にすることもないので、写真を一枚とって歩き始めた。
「地下鉄シェルター」
札幌市営地下鉄南北線は、札幌最古の地下鉄路線であり、1971年12月、札幌オリンピックに合わせて最初の区間が開通した。
建設費削減のため、平岸-真駒内間は地上区間となり、雪対策・騒音対策としてシェルターで覆われている。
地下鉄が地上に顔を出すのは、平岸-南平岸(旧「霊園前」)の区間。
この部分では最大勾配が43%ともなるというが、スピードはちゃんと出ている。なんとありがたいことか。
最寄り停留所は、中央バス・白30 白石平岸線の「平岸3条9丁目」。
地上区間4.5kmにある4駅のうち、「澄川」「真駒内」は多くのバス路線があるが、「南平岸」」は南71 下西岡線のみで、「自衛隊前駅」にはバス停はない。
ちなみに赤平市の「平岸」には「平岸病院」があったが、札幌市の「平岸」にある精神科病院は「高台病院」である。
「輪厚」
札幌から国道36号線を下り、北広島市の大曲地区を過ぎると輪厚地区に入る。
輪厚、大曲はとにかく「渋滞」というイメージがある。1980-90年代よりははるかに改善されているが、今でも冬の悪天候時はどうなるか予想できない。
ここはJR北広島駅よりかなり離れた市の端であり、交通機関はバスしかない。
輪厚地区の真ん中に「希望ヶ丘」という住宅地がある。
ここには中央バス・福97 柏葉台団地線が一日数回やってくる。
国道から少し離れているので、静かな場所である。
「大曲工業団地」
中央バス・福95 美しが丘線は、福住駅を出て羊ケ丘通を一路下っていく。
もともと羊ケ丘通は、渋滞が常であった国道36号線のバイパスの意味もあって整備されたから、バスも細かく停車することはなく、停留所間距離も長めである。
美しが丘3条9丁目までが札幌市、ここから先、三井アウトレットパークは北広島市になる。
ほとんどの乗客はここまでの区間で下車する。
終点は「大曲工業団地」。1969年から造成が始まり、多数の企業が進出している。
「区界」
ここは清田通と東北通の交差点、3つの区から来た道が出会う場所。
左は豊平区・月寒東、直進は白石区・南郷、右が清田区・北野である。
清田区は1997年、豊平区から分かれて誕生。
最寄り停留所は中央バス・61 月寒東線、真105 真駒内線の「栄通18丁目」。
境目の停留所といえば、中央バス・月形線の「村界」(岩見沢市と旧北村)、滝芦線の「市界」(滝川市と芦別市)、沼田線の「深川市境界」などが思い浮かぶが
ここには「区界」という停留所はない。
「国道36号線・旧道」
札幌-室蘭を結ぶ国道36号線。その北野-清田-里塚-三里塚のルートに沿って、いわゆる「旧道」と呼ばれる道がある。
1971年に現在のルートに切り替えられるまで本道だったもので、「弾丸道路」とも言われていた。
清田区役所、いくつかの団地、小学校などがこのルート沿いにあり、中央バス・月62+南62 北野線、大69 大谷地・柏葉台線、福99 緑ヶ丘団地線など、部分的ではあるが旧道を経由するバス路線は多い。
新道沿いのほうは、1980年代までは、あまり開発されていなかったように思う。
上北野の金星自動車より先は、キャバレー「ミカド」の電光看板と静修短大があるくらいだった。
「三里塚」の起源は、明治天皇の来道に際して、札幌の中心部より3里であることを示すために標柱をたてたものという。
ここから「三」を取り除いたものが「里塚」だそうだ。
「苗穂駅前」
再開発ですっかり様子の変わった苗穂駅付近。
駅のそばの公園に、D51の動輪軸と苗穂の歴史について書かれた看板がある。
1969年の市電路線図も書いてあり、興味深い。
苗穂は、1866年に幕命を受けた大友亀太郎(大友堀で有名)が開拓を始めたという。
「察歩呂村」と名付けられていたが、明治初め、札幌開発にともない「札幌元村」となった。
その後、新潟・山形からの移民を迎えて、苗穂村が形成されていく。
ここにはかつて、札幌市電・苗穂線(グランドホテル前-苗穂駅前)が通っていたが、1971年に廃止となっている。バス路線は中央バス・東6 札苗線と56 東雁来線。
「白石開拓記念碑」
中央バス・白23 北郷線に、この名前の停留所がある。
すぐそばに「開拓記念碑」「白石開基百年記念 北海道知事 町村金吾」と書かれた碑が建っている。
曰く、
この地の開拓は昭和二十年東京都からの
拓北農兵隊五戸の入植にはじまる。
翌二十一年逼迫する食糧事情のため疎開
者引揚者等多数来住し第一開拓促進組合を
結成、一致団結本格的な開発が進められた。
当時この地は茅葦が密生する泥炭湿地帯に
加えたび重なる冷水害発生等の劣悪なる立
地条件であったが、それに屈することなく開
拓者精神によって想像することもでき得な
かった今日の大地をきずきあげたのである。
昭和二十八年有志一同により記念碑を建
立する予定であったが打ち続く天災さらに
は用地事情等延伸を余儀なくされた。
幸い今日関係者の絶大なるご配慮によっ
て建立のはこびとなり、ここにこの開拓者精
神の継承を祈念するとともに輝かしい未来
創造を期待しここに開拓記念碑を建立する。
昭和四十五年十月一日
(句読点も碑文のまま)
石碑本体の建立月日は空白となっているが、これは建立が延期されたことによるものという(「歴史のあしあと 札幌の碑」)。
「拓北農兵隊」とは、敗戦間近の1945年7月に、戦災で焼け出された人々に道内各地の開拓を行わせようとしたもの。
「えぞめぐり」というサイトによると、17000人あまりの移住者がいたが、終戦とともに多くは去っていったようだ。
まあ、「来たれ、沃土北海道へ」と言われて一面の泥炭地を見せられたのでは、ビックリしても無理はない。
白石村自体の始まりは、1871年、仙台藩の白石城主・片倉小十郎の家臣の人々の移住に始まる(白石区のサイト)。
「山本四区」
ここはかつて、中央バス・白27 山本線の終点だった。
その後2001年に「白陵高校」まで路線を延長した(wikipedia)。
山本地区は、1909年に豪商・山本久右衛門が資材を投じて開拓を始めた場所だという。
一面の泥炭地だったため、排水路の整備に力を尽くし、父子2代にわたってついに開墾を成し遂げた。
山本稲荷には、山本用水記念碑、開拓記念碑がある。
たしかに1980年代まで、このあたりはまっすぐな用水路が延々と続き、各戸に小さなコンクリート橋がかかっていた記憶がある。
現在、北海道新幹線の建設に伴う残土を捨てる候補地となっており、反対運動の看板が多く立っている。
「山本四区」の次は、2kmほど離れて「6号幹線通」。東米里地区である。
「東米里」というとやはりお化け屋敷を思い出すわけであるが、かなり前に焼失した。
「長沼病院」(現・「ロイヤル病院」)に絡めた逸話が多いようである。
「月寒」
中央バス・61 月寒東線の「月寒東2条2丁目」の近くに「つきさっぷ郷土資料館」がある。
「つきさっぷ」とは月寒のことで、1943年まではこの呼び方が使われていたそうだ。
建物は、1941年に旧陸軍北部軍司令官官邸として建てられたもの。
北部軍は1935年に編成され、樺太・北海道・青森県・岩手県・秋田県・山形県を管轄していたという。
博物館の中身はSAPOCANに詳しく紹介されている。
中央バス・月64 北野中央線の「月寒東3条10丁目」のあたり、札幌東自動車学校の一角に「大久保レンガ工場跡」というプレートがある。
豊平区の広報誌によると、明治15年に創業、昭和30年まで生産をしており、
そこでつくられたレンガは、道庁赤レンガやサッポロビール工場など多くの建物に使われたという。
「新札幌市史」では、明治の初めより札幌では大量のレンガが生産され、その歴史は江別よりも古いと記載されている。
「江別古墳群」
江別駅前から中央バス・札江線(90)を角山に向かって歩いていくと、町はずれの「見晴台」の近くで「江別古墳群」に出会う。
昭和6年に発見された、北海道に現存する唯一の古墳群であり、古墳の北限を示すものだという(江別市)。
wikipediaによると、これらは日本史の「古墳時代」ではなく飛鳥時代、奈良時代、平安時代前半につくられたものだそうだ。
札江線はここを過ぎると、「工栄町」という工業地帯を抜けて角山へと向かう。
「樽川」
石狩市の人口の大半は「花川」地区に集まっているが、ここは「花畔」と「樽川」のそれぞれの一部ずつを合わせてつくったものだそうだ。
このため現在の樽川は元の「樽川村」よりは小さくなっているのだろうが、中央バス・石狩新港団地線には「樽川7線2号」という停留所があるし、
中央バス・石狩新港西線の「トラック団地入口」のそばの「樽川公園」に「樽川発祥之地」という石碑がたっている。
曰く
此処石狩町樽川の発祥地は
オタナイにして江戸時代後期
鮭漁場開設 フムベオマイ之
に次ぐ 明治十五年樽川村開
村 同十八年山口県人集団移
住し安住の基礎を築きたり
以来一世紀農漁業栄え来れ
るも石狩湾新港建設に関連し
て村域の一部を小樽市に割譲
土地を北海道に供し村民新
団地に移る
依ってここに碑を建て来歴
を偲び先人の偉業を讃え永遠
に之を伝える
と。
「石狩ファイル」には、1975年「石狩湾新港の管理方式の合意により樽川の一部8.75km2が小樽市に編入され、65戸(農業者30、漁業者22)314人が石狩町域に移転」と記されている。
この「発祥の地」も、もはや「樽川」ではなく「新港西」という住所に変わっている。
「郷土誌から読み解く地域歴史情報」によると、旧樽川村の領域は、「樽川」「新港西」「銭函」(小樽市)、「前田」(札幌市手稲区)に分割されている。
「石狩」
札幌市北区屯田あたりの住宅地が地続きに拡大していったような感じの石狩市だが、歴史的には逆である。
縄文時代から人が住み、江戸時代には「石狩場所」が置かれて発展した(石狩市の歴史)。
いまや厚田村、浜益村も飲み込み巨大な領域を持つ都市になった。成り立ちを考えると29の町村が合併しているのだそうだ(石狩の成り立ちと歴史)。
石狩市には鉄道はない。1920-30年代に「軽石軌道」という馬鉄が手稲と花畔を結んでいたが廃止。戦後は「石狩鉄道」(石狩臨港鉄道)が計画されていたが頓挫、「石狩モノレール」も検討段階にとどまっている。
交通手段は中央バスのみである。浜益には町営のデマンド輸送のみ。
中央バス石狩線・厚田線の厚田地区の終点、「道の駅あいろーど厚田」から歩き始める。
「厚田支所前」停留所には「厚田村営バス」の「役場前」というバス停が残っている。
厚田村の吸収合併とともに「役場前」が「支所前」になったのだろう。村営バス路線ももうない。
別狩の海岸。風が強い。
「戸田墓園入口」の戸田とは、創価学会第二代会長・戸田城聖。幼少期を厚田村で過ごしたという。
聚富は「本庄陸男」の項でみたように、伊達邦直と藩士たちが入植し、あきらめて放棄した場所。
石狩八幡町では、バスはいったん国道をはずれて奥で転回してから戻ってくる。
石狩川の対岸に石狩線・厚田線の石狩側の終点のあたりが見えている。「八幡稲荷神社」(対岸の「石狩八幡神社」とは異なる)のそばに「清野亀太郎」のという人の碑がある。
このあたりには古い建物も多い。
やがて「1線」「2線」といった名前の停留所が現れ始め、「10線」を過ぎると花畔地区に入る。ここまでくれば石狩市役所はもうすぐである。
花畔神社の動画。
「万字線」
栗沢町(現在は岩見沢市に統合)の山奥にあった万字炭鉱は、かつて道内有数の炭鉱であり、岩見沢から国鉄万字線が通じていた。
しかし1976年に閉山、万字線も1985年に廃止。かつて5000人以上の人口を擁したというが、現在は80人未満が住むのみという(wikipedia)。
鉄道廃止後、中央バスが代替路線「万字線」を走らせていたが、その後「毛陽交流センター」までに短縮、かわりに1日2往復の市営バスが栗沢から万字へ行っていた。
2022年3月末、中央バスは「毛陽交流センター」にも行かなくなり、「いわみざわ公園」までとなり、市営バスがすべて置き換える形となっている。
私は1980年頃、私は国鉄万字線に乗り、作文を書いていた。
厚別から汽車に乗り、岩見沢で下車。
「れんらくれっしゃは万字炭山行きとおしゃまんべ行きなどでした」と書いてあるが、長万部行は旭川か滝川から来ていたのだろうか。長距離の普通列車である。
岩見沢市内の地下道。
まもなく函館本線から分かれ、「志文」まで1駅だけ室蘭本線。「上志文」「朝日」「美流渡」と続き、「万字」で「ほとんどおりてしまいました」という。炭鉱はすでに閉山していたから、次の終点・「万字炭山」に行く人は少なかった。
終着駅からは「まだせんろがのびてトンネルがあった」というから、炭鉱時代にはもっと先から運炭していたのだろう。
盲腸線なので折り返し列車に乗った。「ローカルせんはいし反対の紙をもらいました」と。
「北海道 鉄道跡を紀行する」(1991)では、すでに自然に飲み込まれつつある万字線跡がみられる。朝日、美流渡にも炭鉱があった。
現在は農村地帯。
「月形から江別へ」
月形駅前と江別駅前を結ぶ「ニューしのつバス 江別・月形線」は、江別市街をのぞいて、ほぼ全線で農村地帯を走る。
同じような風景と同じような道が続き、バス停はしばしば路外に転落したりして見落としがち、また農村の一区画は広く、道を間違うと戻るのが面倒である。
道中、コンビニなどもほとんどない。
路線の大半を占めるのは「新篠津村」。
「篠津運河」をはじめ、石狩川水系における数々の治水工事により、月形、新篠津、江別にわたる広大な泥炭地が農村に生まれ変わった。
北海道開発局のサイトに「石狩川頭首工」「篠津運河水門」などが紹介されているし、
土木学会のサイトには、水路の概要を記述した論文がある。
月形市街を出ると、「南耕地」にて国道275号線からはずれる。この地区には「篠津山囚人墓地」がある。
次は「月浜」地区。観月にはあまり向いていないと思ったが、「月形歴史物語」では、1945年8月3日、「空襲で横浜を焼け出された人びとが入植し」「月形と横浜を合わせて」名付けたのだそうだ。
「昭栄」地区には、「昭栄小学校」の跡がある。1951年月形小学校「月浜分校」として開校、のちに「篠津分校」となり、1956年に「昭栄小学校」、2004年廃校(月形町の年表による)。
さらに進むと「村界」停留所があり、新篠津村に入る。
新篠津村の母村は、江別市の篠津屯田である。
東西に走る道路は「北○号」(または「南○号」)、つまり緯線、南北は「○線」で経線となっており、バス停もこれらの名前がついていることが多い。
「北14号」から「北3号」まで下ると新篠津市街、しばらく歩くと市街地のはずれ、「浄楽寺」。ここが「ニューしのつバス 当別線」との分岐点である。
次の「第3集落センター」は、旧「新篠津村立新篠津第三小学校」。1978年に第一小学校・第三小学校・第四小学校・第五小学校・新篠津小学校が合併して「新篠津小学校」となっている。
ここから先、「39線」「38線」「35線」「34線」「31線」という停留所が続くが、なんと同じ名前が当別線でも使われている。「○線」は経線、つまり数キロ北側を同じように東西に走っているのである。「南○号○線」と親切にはやってはくれない。
いよいよ江別市・美原に入る。開基100年の碑がある。
石狩大橋を渡り、市街地へ。
江別駅に向かって歩くと、ニューしのつバス「第3小学校」、中央バス「第1小学校前」が同居しているところに出くわす。もともと「江別小学校」と「第3小学校」があり、2016年、両者を統合して「第3小学校」のそばに新たに「第1小学校」を建てた。中央バスのほうは停留所名を変更したがニューしのつバスは放置しているのだろう。
江別駅付近は鉄道と水運が交差する交通の要所だったが、今は静かである。もともと月形-江別間の水運は、1902年、北海道庁により「命令航路」に指定され、補助金で運営されるほど重要なものだった(北海道開発局)。他方、江別と当別の間には1927年に「江当軌道」が開業。1930年には江別市野幌と栗山との間に「夕張鉄道」ができていた。現在、水運・鉄道はすでになく、月形へはニューしのつバス、夕張へは夕鉄バスが走る。「江当軌道」は1936年に早々に廃止されたが、中央バスが代替。その後、札幌第一観光バス⇒下段モータースと事業者は移ったが、最終的に2016年に廃止されている。
「北村」
岩見沢駅から中央バス・月形線に乗り北上していくと、「村界」というバス停がある。
ここから先、広大な農村地帯は、かつて「北村」という独立した村だった。
1893年に入植した「北村雄治」の名にちなんで村の名がつけられた。
北村氏の「村」が村名の「村」も兼ねており、「北村村」とはならなかった。
蛇行する石狩川水系の水害と、土地の大半を占める泥炭のため、開拓は困難であったという。
治水のために捷水路、排水機場を建設。
土地改良のためには、明渠・暗渠を掘って排水、さらに客土。
なんと客土のために専用の索道や軌道をつくったというから、その規模の大きさがわかる。
1900年に岩見沢村より分村、2006年に岩見沢市に編入。
村の歴史は北村温泉や岩見沢市のサイトに詳しい。
豊正小学校跡のあたりまでが北村の範囲。
付近に、美唄・北村地区の客土軌道敷設に尽力した「高橋宗一郎」翁の像がある。
ここを過ぎると美唄市「大富」。美唄市民バスも到達しているが、バス便はほとんどない。
「本庄陸男」
1905年、当別町に生まれる。プロレタリア作家となるが肺結核に罹患、
「石狩川」(1939)にて当別開拓の歴史を描いた後に死亡。
当別は仙台藩の支藩・岩出山伊達家の伊達邦直とその藩士たちによって拓かれた。
「石狩川」第2章で、開拓地として「ナエイ」を割り当てられたが不適と判断した旨が記されている。
奈井江に碑があるのも、そういうつながりだと思う。
交渉の末、石狩の聚富に入植。しかし不毛の土地のため開拓を断念。
家老・吾妻謙の奔走もあり、当別に入る。
小説では、伊達邦直は「伊達邦夷」、吾妻家老は「阿賀妻」と表記されている。
第1章では、開拓に適した土地を苦労して探索する様子が描かれているが
聚富から「オヤフロ」を経て当別に至っている。「オヤフロ」とはたぶん、生振のこと。
このあたりは中央バス・札厚線で歩くことができる。
第3章以降は、開拓使や藩に残った人々との折衝が中心であり、
当別がどんなところかは実はよくわからないまま小説は終わる。
彼らがあきらめた聚富は、後に淡路島からの兵庫県団体により開拓された。
やはり困難ばかりだったようだ。
1940-50年代に、当別駅から青山の奥地まで「当別町営軌道」(路線図は「当別町営軌道廃線跡を訪ねて」)があったが廃止されて久しい。「中央バス廃線倶楽部」には、昭和40年代に当別と浜益を結ぶバス路線があったと記録されている。青山の開拓の歴史は「青山の今昔物語」に詳述。
そして今、石狩・厚田・浜益から当別へのバス路線はない。当別ふれあいバス・青山線の終点・青山会館から先は、道路のみが続いている。
「奈井江」
かつてこの街にも炭鉱があり、専用鉄道も敷設されていた。
奈井江町営バス・向ヶ丘線を山に向かって進むと、「向ヶ丘」というアパート群がある。
これは、旧炭住を取り壊して町営住宅を建てたものという。
ここから先は無人地帯となるが、終点の「ないえ温泉」(営業休止)のそばに「三井奈井江中学校」の記念碑がある。
奈井江の中心市街は国道12号線沿い。
今度は石狩川のほうを向くと、奈井江と浦臼の間には古くから交通の便があり、
今でも浦臼町営バスが両者を結んでいる。
仙台・岩出山伊達家の伊達邦直が1870年に上陸したという碑もあった。
JRの下をくぐるアンダーパス。
「由仁と三河」
由仁町にあるJR三川駅のそばに「加藤平五郎翁之像」がある。
愛知県碧南市に生まれた彼は、若くして才覚を発揮、豪商の番頭となり
さらに北海道の開拓を志して由仁町に移住。妻・開拓民19名とともに1895年に三川に入った(碧南市のサイト、由仁町の歴史)。
「三川」という地名も「三河」にちなんで名づけたという。
中央バス・岩見沢三川線は主に国道234号線を走り、
志文から三川まで、ほとんどの区間でJR室蘭本線と並走する。
1か所だけ、由仁本町から栗山駅前の間は、角田を通る国道のルートに沿って鉄道から離れる。
由仁本町は中心街と思われるが、町役場は2kmほど離れている。
「夕張サイクリングロード」
山中の旧炭都・夕張への出入り口は、大きく4つある。
山越えで万字に抜ける道道、大夕張から頼城へ抜ける国道。
由仁・追分から紅葉山(新夕張)・夕張市街に入るルート、そして栗山から山を越えるルートである。
このうち前の2つには公共交通はない。
3番目のルートには、紅葉山までJR石勝線、夕張市街まで旧国鉄夕張線(廃止)があり、紅葉山-夕張本町は夕鉄バス・夕張市内線が走っている。
そして4番目。これはもともと野幌-夕張本町を結ぶ夕張鉄道のルートだった。
栗山側の出入り口が「角田」、夕張側の出入り口が「若菜」である。
現在は札幌-夕張間の都市間バスのほか、中央バス・岩見沢夕張線、夕鉄バス・新札夕線が通っている。
夕鉄バス・富野線の始発である富野も、このルートに含まれている。
岩見沢夕張線は1日1往復のみ。マウントレースイ前が発着点。
新札夕線は1日3往復。JR新夕張駅が発着点。
栗山町の「中央1丁目」から「夕張テニスコート」までが両者の重複区間。
このうち「角田本通」-「夕張テニスコート」の間で、夕鉄バスの停留所は22、中央バスは6。
ちなみに夕鉄本社バスターミナルは「夕張テニスコート」のすぐそばにある。夕張鉄道と関係の深いルートという感じがする。
旧夕張鉄道の跡地はサイクリングロードとして整備された。
しかし、整備されずに放置が続いた結果、ほとんど廃道と化してしまっている。
「続・北海道鉄道跡を紀行する」(1999)では、著者らがここを歩いており、当時はまだ整備されていた様子がわかる。
このルート自体はバイクパスとしては人気らしく、道道をサイクリングしている人は何人もいたのに、藪の中に姿を消していくサイクリングロードを走っている人は、ついに見かけることはなかった。
「室蘭本線」
長万部-室蘭-岩見沢を結ぶこの路線は、もともと空知地方の石炭を室蘭港に輸送するために建設されたもの。
いまでは札幌(白石)-沼ノ端間の千歳線が主要経路となるため、岩見沢-沼ノ端間はローカル線となっている。
しかしこの区間、最盛期には1日数十本の貨物列車が走っていた。このため戦前から複線化が進められており、いまでも広い構内を持つ駅が多い。
JRからは廃止対象とされているが、地元の利用もあるし、札幌からのアクセスも良いため休日にはマニアが乗る。
並行バス路線は岩見沢から中央バス・栗山線、長沼線、夕張線があり、三川線は由仁町の「三川駅通」に到達する。
この先は路線バスがいったん途切れて、隣町の安平で「あつまバス」に出会う。
駅に立ち寄ってみる(2021)。
乗ってみる(2016)。
「清水沢」
炭鉱斜陽化・消滅後により、夕張の中心は清水沢地区に移ってきていると思う。
高松、福住など本町の奥にある集落は消滅したし、本町も市役所、診療所があるが廃屋も多い。
かつて「ゆうばりキネマ街道」と名付けて、たくさんの映画の看板を掲示していたが、それも今ではかなり減少している。
夕張市の「立地適正化計画」では、若菜、清水沢、紅葉山の3か所を「都市機能誘導区域」としており、
小中高校、新しい複合拠点施設「りすた」は清水沢地区にある。
清水沢地区はさらにいくつかの区域に分けられているが、もっとも賑やかなのは「南清水沢」だと思う。
「清陵町」というのは、南清水沢から夕張川を渡ったところにあり、アパート群が立ち並ぶ。
人が住んでいるアパートと廃アパートが混在している。
北炭夕張新炭鉱の通洞口、93人の死者を出したガス突出事故の慰霊碑がある。
「歌志内」
北炭空知炭鉱、住友歌志内炭鉱などを擁する炭鉱町で、砂川から分岐する旧国鉄歌志内線の終点でもあった。
今は炭鉱も鉄道もなく、中央バス・歌志内線が滝川と芦別への道を確保している。
数十年間にわたって「人口最少の市」の座を維持している。
1990年代から2000年代の廃鉄・廃墟ブームの頃には、まだまだいろいろなものが残っており、
「北海道鉄道跡を紀行する」(1991)、「そらち炭鉱遺産散歩」(2003)、「炭鉱-盛衰の記憶」(2003)などに、駅跡や立坑、施設跡が紹介されている。
それらも少しずつ失われたり、置き換えられたりしているようで、歌神駅、神威駅跡などは公園に整備されている。
他方では、従来からの公園はやや荒廃しているようではあるが。
上砂川から文殊峠を越えて歌志内に入り、文殊、中村、神威、本町市街、東光と進んでいき、
上歌の「悲別ロマン座」も過ぎると、上歌新栄町という古いアパート群で街は終わる。
この先は新歌志内トンネルが1㎞ほど続き、無人の山に入っていく。
「上歌新栄町」から次の「春光台」まで数キロにわたってバス停はない。
そして、国道38号線、赤平の市街地への入口に「歌志内入口」という停留所が置かれているのである。
歌志内市街の様子。
上歌新栄町の様子。
ふるさと納税により「歌志内市史」を入手することができる。しかも広報に名前も載せてくれる。
「赤平」
滝川と赤平の間はJR根室本線が結んでいるが、いまやこの路線は存亡の危機に直面している。
なにしろ日中6時間余りにわたって列車がない。
バスのほうは、中央バス・滝芦線と歌志内線がある。
後者は、滝川-砂川-上砂川-歌志内-赤平というコースの長い路線である。
滝川-赤平間の移動であれば、こんな遠回りはしたくないだろうから、
上砂川・歌志内からは砂川・滝川方面のみならず、赤平へも行く需要があったのだろう。
廃止された旧国鉄歌志内線は砂川からの盲腸線だったが、
終点の歌志内駅から赤平市内の茂尻駅あるいは平岸駅に延長する構想もあったという(wikipedia)。
中央バス・歌志内線のほとんどの便は「赤平昭和」の発着であるが、
1日2本のみ、その先の「宮下町」が起点となる。
この地区には赤平四大炭鉱のひとつ「豊里炭鉱」があったが、1967年に閉山となったという。
「そらち炭鉱遺産散歩」(2003)で選炭場跡が紹介されている。
1994年まで存続していた住友赤平炭鉱は、駅から少し離れた地区にあるが、現在でもアパート群が立ち並び、人気も多く感じられる。
「上砂川」
この地は、かつて三井砂川炭鉱を擁し、函館本線の枝線の終点であった。
現在は中央バス・上砂川線と歌志内線が通っている。
乗ってみると、けっこう乗客は多い。
旧立坑櫓は無重力実験場となり(のちに廃止)、上砂川駅舎は「悲別駅」として有名。
「続・北海道鉄道跡を紀行する」(1999)、「そらち炭鉱遺産散歩」(2003)、「炭鉱-盛衰の記憶」(2003)などにも記事がある。
国鉄時代は、「上砂川支線」と「歌志内線」は、別々の路線として砂川から分岐していたが、双方とも廃止されてから久しい。
上砂川から「文殊峠」を越えて歌志内まで歩くのは、それほど苦ではない。
歌志内市史では、上砂川との境界争いについての記述があり、隣同士だとわかる。
「砂川駅前」
中央バスは自社のターミナルを中心に路線網を形成していたようで、
砂川、深川などでは、JR駅前への乗り入れがない。
バスターミナルの廃止後、両市とも「市立病院前」がバスの発着点となっている。
他方、駅前に発着するJRバスのほうは、鉄道同様に路線をおおいに廃止してきたから、
砂川駅に発着するバス便は現在なくなってしまっている。
深川駅では旧深名線の代替路線が発着しているだけであり、
中央バス・深川市内循環線の「深川駅前」は、駅から少し離れているのである。
しかし、かつて砂川駅前にもバスはあったようで、
「砂川駅前旅館」の前に”BUS STOP”と書かれたバス停跡がある。
wikipediaにも2003年までJRバス石狩線が乗り入れていたとあるし、
「北海道中央バスファンクラブ」でも、砂川市が国鉄バス増便を要請したといった記事がみえる。
「神居古潭」
縄文時代からアイヌが住み、また石狩川の対岸には旧「神居古潭駅」があることでも有名。
国道12号線は「神居古潭トンネル」を通るが、ここはなんと徒歩では入ることができない。
なので現在でも旧道を歩くことになる。
深川から鉄道沿いに進んできた道道旭川深川線と、それと距離を置く国道12号線は、神居古潭地区で合流する。
石狩平野から上川盆地に入る際、石狩川と鉄道と道路が狭い渓谷を通過。ここは交通の要所であり難所でもある。
路線バスは中央バス・深旭線(芦旭線は廃止)、道北/沿岸バス・留萌旭川線があり、その他の都市間高速バスも頻繁に通っている。ちなみに山中の「観魚橋」から旭川市街の入口「台場2条1丁目」まで6キロほどにわたりバス停は途絶える。
付近には神居古潭神社、開拓記念碑、廃校になった神居古潭小学校跡がある(北海道新聞)。
「納内」
この地は屯田兵が入植し、開拓されていったという。
「屯田兵と北海道の開拓」に詳しく紹介されている。
駅の近くに神社や開拓記念碑がある。
妹背牛・深川ではJR函館本線と国道12号線はかなり離れており、
滝川-深川間のバス路線には、鉄道沿いのもの(中央バス・深滝線)と国道経由のもの(中央バス・滝深線)がある。
深川-旭川間では、前者が中央バス・深旭線、後者が道北バス/沿岸バスの留萌旭川線ということになる。
中央バス・更進線は、深川市街から納内までは鉄道に沿い、納内で方向を転じて国道12号に出るという異色の路線だった。
国道では神居古潭の手前で芦別方面に転じるものの芦別には達することなく、いまだ深川市内の更進を終点としていたのである。
残念ながら2021年9月末で廃止された。
「小藤小学校」
中央バス・北竜線沿線、妹背牛の「小藤コミュニティセンター」は
旧小藤小学校の跡地にある。1903年から1971年まで、ここには学校があったのだ。
このあたりは、雨竜を中心とする旧華族組合農場の一部として始まり、
地名は「小藤」という一族が入植したことに由来しているようだ。
子孫の方のブログもあった。
「雨竜川」
雨竜川(wikipedia)は石狩川有数の支流。
「旧渡船場」の項で出てきた「江竜橋」の付近で石狩川に合流する。
写真は北竜橋(北竜町)でとったものだが、由来となるアイヌ語は諸説あるという。
ここは「江竜橋」、「雨竜橋」のさらに上流の北竜町にあり、
中央バス・北竜線が通っている。
次の写真は「雨竜発祥之地」の記念碑。
雨竜の中心街を離れた場所にあり、今は市街地ではない。
ここ「尾白利加」(おしらりか)に駅逓がおかれ、
石狩川水運の船着き場でもあったという。
中央バス・滝川北竜線がここを通っていたが、2022年3月末で廃止。
雨竜・北竜は旧札沼線の新十津川-石狩沼田間の沿線であり、
「雨竜」「石狩追分」「渭ノ津」「和」「中の岱」「碧水」「北竜」の駅があったが
こちらは1972年に廃止。
また、このあたりは、水利事業が多く行われ、ダムや頭首工が建設されている。
「留萌本線」
深川から沼田に向かって歩くと、JR留萌本線と出会うことが多い。
赤字ローカル線として廃止も間近といわれており、
鉄道マニアの間では有名な路線である。
とはいえ、車内が常時大混雑というわけではなく、
駅に至っては列車が来ないときは閑散としている。
北一已駅は、中央バス・西北星線の「二北星」「北新公民館」が最寄り停留所だが、
至近距離にあるわけではない。
秩父別駅も、中央バス・沼田線の
「大聖寺前」と「ちっぷゆう&ゆ入口」の間で立ち寄ることができるが、「わざわざ」という感じである。
石狩沼田駅に関しては駅前に停留所がある。
「沼田本通」停留所は見つけにくかった。
11月半ばで4時台に暗くなってしまうのだが、なかなか街灯がつかないのである。
市街地の闇の中、数百羽のカラスが電線にびっしりとまっていた。
冬の留萌本線は、雪害のため頻繁に運行休止となる。
線路が簡単に雪に覆われてしまうのをみると、さもありなんと思う。
しかし、2022年2月第4週の石狩空知地方の大雪では、
札幌近郊のJRが何日も運行不能になっている中を、いちはやく運行再開していた。
たぶん深川留萌地方は雪が極端ではなかったのだろう。
「妹背牛」
「北海道・駅名の起源」(1973)によると
地名の由来はアイヌ語の「モセ・ウシ」(イラクサの原)とのこと。
バレーボールで有名だった北海道妹背牛商業高等学校はすでに廃校。
2004年に北空知1市4町合併協議会が設置され、
深川市、秩父別町、妹背牛町、北竜町、幌加内町が参加していたが、
どれも合併はしなかった。
もし合併が成立していたら、ただでさえも広大な深川市は、
さらに巨大なものになっていたことだろう。
「多度志」
1915年多度志村発足、1962年町制施行、1970年深川市に編入。
旧国鉄深名線の駅があったこともあり、
現在も深川-名寄を結ぶJRの代替バスが経由している。
中央バス・多度志線は、それとはまったく異なる経路をとる。
1日2往復しかないし、ほとんど人気のない山道を通る。
深川を出発したら多度志が終点である。その先はない。
その停留所は、JRバスの「多度志」とは離れており、
旧国鉄多度志駅に近い。
深川から歩き続け、「中山峠」を越えると
道が多度志の集落に下っていくのが見える。
「メム川」
漢字で芽生川ともいい、妹背牛を流れる。
町内に改修記念碑がある。
以下、碑文。
往昔 水清く鮭鱒遡上せるメム川は
開拓の進展に伴い 基幹排水路として
重要な役割をも果たしきたりしに久しく
原始河川の侭放置され 為に流路蛇行
雑草繁茂し流水の阻害著しく 融雪期
降雨時に氾濫農耕地を浸し 関係住民
困窮を極む 之が改修の宿願漸く実り
昭和三十八年国営明渠排水事業として
総額三億七千八百万円を以って改修に
着手 開道百年に当る昭和四十三年
完成を見る
今や 曽ての荒漠たる原野も豊穣の
美田と化し 淡々と沃野を走る此の清
流を眺むるとき 国営事業推進に努め
られた 長谷川政友先生 之が実現に
寄典せられた 衆参両院内外の諸先生
並びに関係御当局不断の御高配 貴重な
用地を供されし沿岸各位の熱意 また
昭和二十六年期成会結成以来十八年に
亘り本葬尽疩されし 妹背牛町理事者
農業協同組合役員深川土地改良区役員
及び本期成会役員等諸氏の功労 更に
改修を叫び続けし幾多先人の辛苦等
併せ銘記すべきものたらむ
メム川が 本地域發展の基礎として
益々活用されんことを祈念すると共に
関係者永年の足跡と悲願成就の欣びを
茲に簡記す
昭和四十四年十一月 建之
妹背牛町メム川改修期成会
渋田民二郎謹書
メム地区には雨竜川の排水機場もある。
「東滝川駅」
滝川駅のすぐ隣にありそうな駅名だが、歩いてみると案外遠い。
もとは「幌倉」といった。
「北海道・駅名の起源」(1973)によると
「親である岩の崖」という意味のアイヌ語「ポロ・クラ」を起源としているが
専門家からは疑問視されているという(wikipedia)。
中央バス・滝芦線は、滝川市街地ではJR根室本線から離れているが
ここ東滝川で線路をクロスし、次の赤平駅まで再び線路を離れる。
駅舎内の展示 (11/28/2021) – 鉄道誘致に功績のあった人々。
駅舎内の展示 (11/28/2021) – 昭和40年ころの市街地図。
駅近くの碑 (11/28/2021) – 読めなかった。。。
「豊沼駅」
奈井江と砂川のあいだにあるこの駅は、
かつて付近に大小の沼があり地味豊かではなかったことから、「豊かな所になるように」との意味で名づけられたという。
(wikipedia、「北海道・駅名の起源」(1973)による。)
中央バス・滝川美唄線を歩く際に利用したが、
実はこの駅から直接、バス路線のある国道12号に出ることはできない。
回り道をして跨線橋を渡る必要がある。
なので「豊沼駅前」というバス停はなく、
北側の陸橋を越えれば「東圧正門前」、南側なら「北電入口」が最寄り停留所ということになる。
「旧渡船場」
中央バス・深滝線では、江部乙と雨竜の間の石狩川を「江竜橋」で越える。
橋ができる前は「伏古渡船場」があったことを記す碑が建てられている。
従来よりアイヌ人の住んでいたこの地に和人が入植、明治時代に渡船が始まった。
1958年に「江竜橋」を着工、7年の歳月をかけて1965年に完成。
これにより「75年間11代にわたる船頭と部落民の血のにじむような努力によって」
「一件の事故もなく終始した」渡船場は廃止された。
現在の橋は2012年に架け替えた2代目という(Wikipedia)。
雨竜町によると、雨竜から妹背牛方面へは、すでに1894年に雨竜橋がかかっていた。
「雨竜橋」という停留所もある。
深滝線は、滝川-江部乙-江竜橋-雨竜-雨竜橋-妹背牛-深川というコースを取り、
二度川を越えるのである。
ちなみに札沼線新十津川-石狩沼田間の橋は1972年である。
「茂尻」
「北海道・駅名の起源」(1973)によると
「茂尻」という地名は、アイヌ語の「モシリ・ケシオマ・ナイ(シは小文字)」に由来し、
「島の下手にある川」という意味だという。
ここにはかつて茂尻炭鉱があり、終戦直後には3000人の従業員を擁したという。
その歴史は炭鉄港や「炭鉱-盛衰の記憶」(2003)、炭鉱住宅の様子は「そらち炭鉱遺産散歩」(2003)など。
市街には、JRの駅と中央バス・滝芦線の停留所がある。
「平岸」
根室本線・平岸駅は、赤平と芦別の間にある。
「北海道・駅名の起源」(1973)によると、アイヌ語の「ピラ・ケシ」に由来するもので
「がけのしも」という意味だという。Wikipediaでは「ピラ・ケシ」は「崖の尻」としている。札幌市豊平区平岸などと同じ地名である。
駅の近くに平岸病院という精神科病院がある。
「頼城」
かつて三井芦別炭鉱があり三井芦別鉄道の終点。
炭鉄港によれば、昭和30年代には4500人あまりの従業員がいたという。
今では炭鉱も鉄道もないが、空知交通・頼城線が走っている。
駅舎は今はないが、「続・北海道鉄道跡を紀行する」(1999)などで見ることができる。
炭鉱施設は「そらち炭鉱遺産散歩」(2003)、理髪店の建物は「炭鉱-盛衰の記憶」(2003)など。
「緑泉・頼城学校」
このあたりは、かつての三井芦別鉄道、芦別川から見て頼城の手前に位置する。
緑泉駅のあたりには住宅が密集、店が十数件もあったという。
鉄道・炭鉱の廃止後は、駅は民家となったという。
頼城小学校は1958年には41学級、生徒数2214人の隆盛を誇った。
その後の衰退により、2002年に閉校となる。
1999年、GTOのロケ地になった。その後、星槎大学のキャンパスとなったという。校舎の様子は文化遺産オンライン、空知総合振興局など。
最寄りのバス停留所は、空知交通・頼城線の「頼城学校前」。中央バス路線はすでに消滅している。
「続・北海道鉄道跡を紀行する」(1999)、「そらち炭鉱遺産散歩」(2003)、「炭鉱-盛衰の記憶」(2003)などにも登場。
自分が歩いた時には、人気のない場所であった。
「三井芦別駅」
かつて、西芦には芦別駅から頼城駅に向かう三井芦別鉄道の「三井芦別駅」があった。
Wikipediaによると、1940年開業・1989年廃止とのこと。駅舎の様子は空知総合振興局のサイトなど。
「そらち炭鉱遺産散歩」(2003)、「炭鉱-盛衰の記憶」(2003)という本でも紹介されている。鉄道そのものについては、「北海道の鉄道」(2001)など。
この近辺には、有名な「炭山川鉄橋」がある。
鉄橋上に機関車が残っているというスポットである。
このあたりでは、とにかくアパート群が素晴らしかった。
駅のほうは空知交通・頼城線の「西芦2丁目」、
鉄橋は同じく「西芦6丁目」が最寄り停留所である。
「音江環状列石」
中央バス・滝深線で出てくる音江の近くに、縄文時代の環状列石がある。
Wikipediaによると、1928年に発見され、1956年に国指定の史跡となった。
その後の発掘調査で人骨や翡翠小玉などが出土したとのこと。
深川市のサイトによると、最寄りの停留所は「稲見山入口」である。
「芦別大火の碑」
1928年4月11日、芦別市街地のおよそ半分を焼失させた大火が起こった。
「芦別消防団の歴史」によると
◎消失面積 市街地の約1/2で2万坪
◎消失戸数 158戸
◎罹災者数 総戸数の47%で828人
◎損害額 40余万円
にのぼったという。
それから90年の歳月をへて建てられたのがこの碑である。
大興石材産業株式会社により設計、制作加工、施工され、
2019年7月8日に除幕式が行われた(市長動静)。
「啓南大橋」
空知交通・頼城線で出てくる啓南分岐点のそばを芦別川が流れている。
対岸との間は深い谷となっており、橋から見下ろすと急流が恐ろしい。
ネットで調べてみると、この橋は心霊スポットだというのである。
西芦側には地蔵があり、道中安全にはありがたいと思ったが、
何やらいわくつきと感じる人もいるのかもしれない。
自分が行った時には、人も車もまったく見かけなかった。