札幌市北区屯田あたりの住宅地が地続きに拡大していったような感じの石狩市だが、歴史的には逆である。
縄文時代から人が住み、江戸時代には「石狩場所」が置かれて発展した(石狩市の歴史)。
いまや厚田村、浜益村も飲み込み巨大な領域を持つ都市になった。成り立ちを考えると29の町村が合併しているのだそうだ(石狩の成り立ちと歴史)。
石狩市には鉄道はない。1920-30年代に「軽石軌道」という馬鉄が手稲と花畔を結んでいたが廃止。戦後は「石狩鉄道」(石狩臨港鉄道)が計画されていたが頓挫、「石狩モノレール」も検討段階にとどまっている。
交通手段は中央バスのみである。浜益には町営のデマンド輸送のみ。
中央バス石狩線・厚田線の厚田地区の終点、「道の駅あいろーど厚田」から歩き始める。
「厚田支所前」停留所には「厚田村営バス」の「役場前」というバス停が残っている。
厚田村の吸収合併とともに「役場前」が「支所前」になったのだろう。村営バス路線ももうない。
別狩の海岸。風が強い。
「戸田墓園入口」の戸田とは、創価学会第二代会長・戸田城聖。幼少期を厚田村で過ごしたという。
聚富は「本庄陸男」の項でみたように、伊達邦直と藩士たちが入植し、あきらめて放棄した場所。
石狩八幡町では、バスはいったん国道をはずれて奥で転回してから戻ってくる。
石狩川の対岸に石狩線・厚田線の石狩側の終点のあたりが見えている。「八幡稲荷神社」(対岸の「石狩八幡神社」とは異なる)のそばに「清野亀太郎」のという人の碑がある。
このあたりには古い建物も多い。
やがて「1線」「2線」といった名前の停留所が現れ始め、「10線」を過ぎると花畔地区に入る。ここまでくれば石狩市役所はもうすぐである。
花畔神社の動画。