三笠市の都市計画によると、市内は6つの区域に分けられている。
岩見沢から中央バス・三笠線に乗ると、まず「岡山・萱野地区」に入る。岩見沢美唄線も含めると7つの路線バス停留所がある。エリア内にはイオン三笠店もある。次にくる「三笠地区」が市の中心を含み、市役所や病院がある。明治時代に空知集治監が設置されて開拓が進み、市来知神社には初代典獄・渡辺惟精の碑がある。
「一八八一年(明治十四年)空知集
治監創設をこの地に定め初代
典獄となり空知郡長等の要職
を兼ね在任九年 幌内炭鉱の
採掘道央地方の開発に当る
村内に殖産文化の施設を興し
住民と辛苦を共にして本市開
発の礎を築く 離村に際し寄
付した私財は村の財政を豊に
し永く住民に福祉をもたらし
た 一八四六年岐阜県に生れ
一九00年東京に没す」
続いて「北海盆踊り発祥の地」を示す碑。
裏の碑文(句読点はそのまま、改行位置は変えてあります。)
「山あいに雄々しい姿を残すズリ山、その石塊の一つひとつに思いを寄せた時、百数十年の時を越え、先人達の町造りの槌音が聞える。
明治、大正、昭和と、近代日本の産業振興を刺させる資源として明治元年、未開の地幌内で発見された石炭を、採掘、運送すべく、明治12年、幌内炭鉱が開鉱され、明治15年、空知集治監が開庁、同年、北海道で最初の幌内鉄道が開通した。明治18年、幾春別炭鉱が開鉱し、熊本、徳島からの千百余名に続き、東北、北陸地方の人達を中心に集団移民の時代を迎えた。当時市来知村は内陸開拓の拠点としても、札幌以東随一の町として繁栄した。
豪雪酷寒の地での厳しい生活や、過酷な労働の日々を、互に助け合い喜愁共に分かち、協同の力で今日の三笠の礎を築いてきた。
このような暮の中にも、町中が楽しさで狂気沸立つ時があった。巡る季節の中、北国の短い夏を惜しみ、各部落で夜を徹して老若男女が共に唄い、共に踊った盆踊りです。
中でも、ヤマの男の力強い踊りで知られた幾春別の盆踊りは、櫓を幾重にも囲み、二万余の人出で賑合う近隣一の大盆踊りでした。この幾春別の盆踊りで、古くから唄われたべッチョ節は、過酷な坑内労働の中から生まれ盛んに唄われ、又、踊られたものでした。
このべッチョ節を、昭和15年、当地を訪れた北海道民謡界の重鎮、今井篁山先生が整査し、北海炭坑節として広く世に出し、昭和32年、北海盆唄としてレコード化された。平成4年、北海道教育大学教授で、北海道民謡連盟最高師範でもある、吉田源鵬氏が日本民俗音楽大会で、ベッチョ節を元唄とする北海盆唄の発祥の地は、三笠の幾春別であると発表され、公的に認められた。
平成5年、この北海盆唄発祥の地三笠で第一回北海盆唄全国大会が開かれた、平成24年、第二十回大会を記念し、三笠民謡連合会一同の和をもって、この日を建立し寄贈する。」
そんな「三笠地区」も東側の美園町あたりでは賑わいを失う。
次は「唐松・清住地区」。旧幌内線の唐松駅が保存されている。
奥に進むと次第に人気がなくなってくる。
そして「弥生・幾春別地区」に至る。
もっとも、完全な無人地区はなく、無住のアパートもすべての窓に板が打ち付けられ、下草も刈られているなど、完全放置となっていない点は印象に残る。
残る二つのうち「本別・桂沢地区」には路線バス等はなさそうだが、三笠鉄道村のある「幌内地区」には市営バス・幌内線が走っている。