「馬追運河」

泥炭地の排水を行い土地改良を行うため、1894-6年に開削された。のちには水運にも利用され、江別方面と結ばれていた。JR北海道バスの広34・広36 長沼線・西2線通停留所付近に記念碑がある。

08/04/2025

碑文

馬追運河は本町開拓の幹線排水にして百年の歴史を目睫にす。
そのかみ石狩低地帯は夕張川の自由蛇行氾濫の跡にして、いたるところ古川めぐり、無数の残沼隠在する泥炭の大湿原たり、第四代北垣国道北海道長官は「移民ニ先タツ者ナレバ最モ急施ヲ要ス」と宣言し石狩川下流域の大規模排水運河の一つとして、明治二十七年十月起工す。工事の経過は折りから日清戦争の影響をうけ、あるいは洪水により樹木流入して作業を妨ぐ。労働また過酷にして土工哀史を刻むも、明治二十九年漸く完成して本道運河の嚆矢と謳われ、土地改良に著しい効果をあげ同時に江別間の舟運に利用されリ。
長沼市街地の創立もこの恩恵による。
以来馬追原野四千三百町歩の排水動脈として顕著な役割を果たしつつも星霜を経るにしたがい泥土堆積して機能低下す。よって大正十年及び昭和十年浚渫して排水を維持しつつも、戦後農地の拡大、千歳川の逆流による内水の滞留により、却って本町西部の水害を助長するの姿を呈せり。
よって地域住民は馬追運河改修促進期成会を結成し多年にわたって各要路に陳情請願を尽くす。
この間昭和三十六年からの連続洪水は水害の常習地帯として深く認識せられ国、道の機関はあげて堤防の築造内水排除の機場を設置せられ、ついで昭和五十年から大改修に着手し、平成三年度をもって完成の運びに至れり。
住民の悦びこれに過ぎるはなし。
しかし治水・排水の大業は永遠の町是にして、これをもって止まることを許さずなお将来に向かって努力をつづける決意を新たにし、ここに碑を建立し先達の功績を頌し後世に伝えんとせん

この付近の馬追運河 (08/04/2025)

JRバスは「基線通」と「あかね団地」の間で運河を渡る。

08/27/2025
08/27/2025