愛別の市街地は、石狩川を境に北側の愛別本町と南側の駅前とに分かれている。アイヌ語の「アイペッ(矢またはトゲ・川)」が語源とされる。石狩川沿いに国道39号を東西に抜けるのが道北バスの81・83 層雲峡線、比布方面から南下して愛別駅前に向かうのが5 愛別線である。愛別橋が南北の市街地をつないでいる。


愛別駅は1922年の開業。駅員はいない。








石狩川に沿って東進する。小川を渡る。

中愛別跨線橋を越えると中愛別地区に入る。



中愛別にあった中里小学校は、1898年開校。2010年に閉校し、112年の歴史に幕を閉じた。中愛別の「中央」地区と、隣接する「豊里」地区の2つの地域をまとめて命名されたという。



近くには中愛別開拓記念碑がある。

碑文。
謹ミテ按スルニ畏クモ 明治大帝夙ニ北海道ノ開拓ニ御軫念アラセラレ 明治二年開拓使ヲ設置セラルルヤ 詔ヲ下シテ拓殖促進ノ急務ナルヲ宣示シ給フ 聖慮潦遠誠ニ恐懼ニ堪エサル所ナリ 回顧スレバ当中愛別ノ地
素是レ千古不斧鉞ヲ加ヘサル鬱蒼タル森林ニシテ 徒に狐狸熊ノ跳梁ニ委セラレシガ 明治廿八年愛知県人約廿五戸ヲ首メ 愛媛県人十一戸及山形宮城其他県人約六戸ノ者始メテ此地ニ移住シ当部落建設ノ礎石ヲ置ケリ 当時本道ノ拓殖未タ振ハス 石狩ノ上流辺陸ナル上川地方ニ於テハ殊ニ甚タシキ状態ナリキ 就中当中愛別の如キハ人煙絶無ニシテ交通不便ヲ極メ日常ノ木塩ヲ求ムルニ一日ヲ費シテ泥濘五里ノ道を当麻町ニ往還セサルべカラス 又札幌方面ニ到ルニハ空知太迄廿六里ノ悪路ヲ徒歩シ 始メテ汽車ヲ利用シ得タルカ如キ 到底今人ノ想像モ及バサル所ナリ 然ルニ爾来櫛風沫雨丗五年田園大ニ拓ケ戸口年ト共ニ加ハリ 明治丗一年一月学校開設ノ当時僅ニ廿九名ニ過キサリシ学童ハ現二七学級三百余名トナリ棒莽荊棘ノ地モ余ス所ナク開墾セラレシモ 大正十一年十月工費約十九万円ヲ投シタル灌漑溝ノ完成スルヤ忽チニシテ美田ト化シ 当今反別四百五十余町歩 年産米額実二万俵ヲ超エルニ至ル 道路ハ担担トシテ縦横ニ通ジ殊ニ大正十二年鉄道開通シテヨリハ交通ノ面目全ク一新セリ顧テ寔二隔世ノ感ナキ施ハス 創業茲二献賛シタルモノト謂フ可シ昨秋畏クモ今上陛下御即位ノ大礼ヲ行ハセラレ挙国奉祝ノ赤誠ヲ捧ク 乃チ当部落有志相議リ茲二開村丗五年間ノ事積ヲ石二
刻シテ 昭和ノ大典ヲ記念シ奉ルノ碑トナスト隔云
昭和四年六月十五日建
中愛別駅は1923年の開業。




石狩川に沿って歩き続ける。

石狩川と国道、石北本線が狭いところに集まっている。

「国道分岐点」停留所付近で、道道と国道が分岐する。



愛山駅跡は小さなミュージアムになっている。地元の人が整備している。1959年に開業、2024年に廃止。「愛山」の由来は、1897年に入植した人々が愛知県と山形県の出身であったことから、両県の名称を合成したという。

愛山開拓記念碑は、1977年に移設されたもの。

碑文。
移設再建に当りて
この記念碑は明治三十年よりこの地に入植し開拓者の血と汗で築き上げた三十年間の歴史を大正十五年に刻み建立されたものであります
其の後昭和二十二年農地改革によって自作農となり経済的にも安定し加えて昭和三十九年には国道三十九号線が地域の中央に路線変更された結果極めて利便地となり更に昭和四十六年より七年間にわたり農業の近代化を目指して行われた基盤整備事業も完成した今日御陰で明るく平和な中に生活が営まれるのも先人の御労苦の賜りと心から感謝申し上げております
この記念碑こそ子々孫々への道標であり郷土の誇れる遺産でもあります
然し五十年の歳月が流れた今日碑石は砕け刻名は剥がれ落ち誠に目に余る姿となりました
心ある者誰からともなく「父祖の精神を受け継ぎ後世に伝えよう」との意見が全住民の声となり併せて開拓八十周年と言う意義深い年に当り愛山全域が一致協力し移設再建しました
この記念碑から聞える先人の叫びをいつまでも静かに聞き伝えることを願って
愛山小学校は2010年に閉校。約100年の歴史があった。

愛山の踏切。


小川を渡る石北本線。

ついで安足間に入る。静かな集落である。


安足間駅は1927年の開業。







愛山湧水。愛山神社の下に位置する。


今度は81・83 層雲峡線から離れて5 愛別線に沿って愛別本町に行ってみる。

金富農場とは1894年に和歌山県田辺町の近藤新十郎と岡本庄太郎が愛別原野の払い下げを受けて開設した民間農場である。



この先、愛別川を渡ると比布町に入る。


動画。
