NRHP以外のもので、Cambridgeを歩くに収録しなかったものを挙げていく。
General Putnam Headquarter
1775年、Israel Putnamはここに司令部を置いた。彼はBunker Hillの戦いでの活躍で有名である。

William Brewster House
William Brewsterは鳥類学者(1851-1919)。彼はここに1887年から死ぬまで住んでいた。

Washington Allston’s Studio
ここはWashington Allstonが絵をかいていたスタジオであり、彼自身は近くの家に住んでいたという。

St. John’s Literary Institute
アイルランド系移民とためのカトリック友愛団体のあった場所。1863-1920年にかけて、East Cabmridgeのコミュニティセンターであった。

Misses Sarah and Emma Cary House
1881年建築のSarahとEmma Cary姉妹の家。彼らはRadcliffe Collegeの共同創設者で初代学長のElizabeth Cabot Agassizの姉妹であった。

Old Burying Ground in Cambridge
1635年に開かれた墓地。初期の植民者やHarvardの学長らが埋葬されている。Cambridge Common Historic DistrictにあるFirst Parish in Cambridgeの隣。

Revolutionary Earthworks
1775年、この場所はPatriotsの野営地を英軍の攻撃から防御するために要塞化された。

Edith Lesley House
Lesley Universityの前身、Lesley Schoolを創設したEdith Lesley(1852-1953)の家。彼女は1915年にこの家を買い取り、その後ここはLesley Schoolの本部でもあった。

John “Muggsie” Kelly
Harvard Stationの近くにある。彼は生涯をHarvard Square Stationの建設に捧げた。

J. Milton Clarke and Lewis Clarke
住宅地にある目立たない看板である。一読の価値があると信じる。

LewisとJohn Milton Clakeは、KentuckyのMadison郡に生まれ、Cabmbridgeにおける反奴隷運動の多くの貢献者のうちにあった。彼らは、Revolutinary Warの白人の退役軍人と、プランテーションの所有者Samuel Campbellが黒人との間につくった娘との間で生まれた息子たちであった。Campbellは死に際して娘とその10人の子供たちに自由を約束した。しかし、彼の後継者たちは相続の権利を主張し、彼らはオークションで幾人かの新しい主人に売られた。肌の色がlight complexion (黒人よりは明るく白人よりは暗い色)であったため、LewisとMiltonは「白人奴隷」として注目された。
兄弟はOhioに逃亡し、1842年にOberlinで再会した。1843年にCabbridgeに到着し、Broadwayに近いProspect Stに住んでいたボストンの商人Aaron Saffordのもとに滞在した。彼らは、奴隷廃止運動教会として知られていた第二福音派会衆教会に加わった。彼らの牧師Reverend Joseph C. Lovejoy (奴隷廃止運動における有名な殉教者Elijahの兄弟)は、1846年に彼らのことを書いた本「Narrative of the sufferings of Lewis and Milton Clarke」を出版した。
Clarke兄弟の名声は偶然により高まったのであった。Saffordの妻MaryはDr. Lyman Beecherの娘であり、Harriet Beecher Stoweの姉妹でもあった。彼らの話を聞いた後、MaryはStoweがCambridgeで彼ら兄弟に会えるよう取り計らった。Stoweは「アンクル・トムの小屋(Uncle Tom’s Cabin)」における登場人物George HarrisをLewisをモデルに創作した。
LewisはCivil Warの前にCambridgeを去り、逃亡奴隷によって創設されたOntarioのDawnに向かった。彼はのちにOberlinに戻り、死ぬまでそこに住んでいた。
MiltonはCambridgeに残り、仕出し屋・ウェイターとして働いた。彼は大きく拡大した家族を養い、Norfolk StとFlorence Placeの角に1851年から死ぬまで住んだ。彼は自分のパトロンであったAaron Saffordの後を継いで市評議会員となったが、これはCambridgeの公共機関に選挙で選ばれた最初のアフリカ系アメリカ人であった。彼は1872年に再選されたが、米国財務省のBoston支部の通信員になるために辞職した。そこではCambridgeにいた別のアフリカ系アメリカ人John J. Fatalも82歳で死ぬまで33年間働いていた。
888 Memorial Drive
もともと、ここにあったHarvard University Design Schoolの建物はほとんど使われずに放置されていた。1971年3月6日、100名以上の女性たちが占拠した。彼らは、低所得者に対する住宅供給、女性センターの設立、そしてその目的が達成されるまでここを“Liberated Women’s Center”として集団で居住することを要求した。彼らは10日間にわたり籠城、その結果、低所得者の住宅が整備され、 Cambridge Womens Centerができたという。

JFK Park
1976年、John F. Kennedyを記念してMemorial Drive沿いにつくられた公園。特にみるべきものはないが、門柱に彼自身の言葉が刻まれている。

「力を生み出す者は国家の偉大さに不可欠な貢献をするが、力に疑問を呈する者は、特にその疑問が関心を持たれないとき、自分たちが力を使っているのか、力が自分たちを使っているのか決めるのに、同じく不可欠な貢献をする。」
(Amherst Collegeにて名誉学位を受けた際の挨拶。10/26/1963)

「私は、アメリカが優美さと端麗さを恐れず、自然環境の美しさを守ること。。。アメリカが強さだけでなく文明的にも世界中の尊敬を当然のこととして受けるのを待ち望んでいる。」
(Amherst Collegeにて名誉学位を受けた際の挨拶。10/26/1963)
Tudor Ice Company
Cambridgeのはずれ、Cambridge Home for the Aged and Infirmの近くにこの看板が建っている。Tudor Ice Companyは、Frederic Tudorにより創設された会社で、マサチューセッツで切り出した氷を輸送・販売していた。その販売先はカリブ海諸国、ヨーロッパ、遠くはインド、香港にまで及び、彼はボストンの「氷の王」と呼ばれていたという。この場所の近くにあるFresh Pondからも販売用の氷が切り出されていた。現在、Fresh Pondが厚い氷で覆われる様子はあまり見ないが、やはり地球温暖化のためなのだろうか。
