「寿都から岩内へ 第1回」(01/06/2025)に続いて私は歌棄からの南下を目指していたが、1月8日には高速いわない号の遅延により寿都行きをのニセコバスを逃してしまい、代わりに岩内⇔敷島内の区間を歩いた。歌棄からの区間を歩いたのは、帰国後半年もたった2025年11月に入ってからである。
いまは寿都町に含まれている歌棄、磯谷は明治時代にはそれぞれニシン漁で栄え、独立した村となっていた。大網元のカクジュウ佐藤家も歌棄と磯谷の双方に分家している。歌棄郡・磯谷郡という郡も存在し、熱郛村などを含んでいた前者は現在では消滅していたが、後者は蘭越町を有して健在である。実際、蘭越町の領域はほとんどが内陸部であるが、尻別川に沿って細く海への出口を持ち、河口付近に「港」という集落がある。この辺りまで歩くのが今回の目標である。
歌棄でバスを降りると「歌棄会館」があり、敷地内に「風雪百年」の碑がある。
歌棄会館 (11/03/2025)
風雪百年の碑 (11/03/2025)
少し歩くと海岸に社と記念碑が建っている。
11/03/2025
碑には「忍路高島およびもないがせめて歌棄磯谷まで」という江差追分の一節が刻まれている。昔の道知事・町村金吾氏の書のようだ。
歌棄の海岸 (11/03/2025)
その先には「北海道建網行成網漁業發祥の地」という碑がある。こちらは町村氏の前の知事、田中敏文氏の書である。
11/03/2025
そして有名な歌棄の「カクジュウ佐藤家」に着く。巨大な木造建築物である。
佐藤家 (11/03/2025)
案内板より。
「カクジュウ(屋号で表記)佐藤家は嘉永五(一八五二)年以降ウタスツ、イソヤ、ニ場所請負人を勤め歌棄場所から黒松内に至る十六キロ余りの道路、磯谷の能津登から岩内場所との境界アブシタまで四キロ余の道路を私費をもって開削し苗字帯刀を許された定右衛門・栄右衛門父子の系図である。
またニシン漁獲法の改善を心がけ行成網を導入して西海岸のニシン漁の急速の発展に尽し維新後は駅逓取扱人を命じられ当地方随一の名家である。
この建物は主屋は間口ニ四三メートル奥行十八メートルの二階建でよせ棟屋根に西洋風下見張り二階正面に櫛形ペジメントの付いた上げ下げガラス窓屋根の大棟をまたいで洋風の六角形の煙出しその背後に和風の切妻屋根の煙出しを設けた洋風と和風が入り交じった折衷の独特のスタイルの外形をもっている。またニシン場建築にみられる漁夫宿泊部を含んでいない点に特色がある。
建物の完成年代は外形の洋風建築形式からみて常識的に明治十年から二十年の間の建築と思われる。旧態の保存が良好である上建築年代・規模・意匠・構造の諸点からみて現在の漁場建築中でこの建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。」
歌棄を過ぎると、有戸・種前に入る。
有戸・種前会館 (11/03/2025)
有戸の海岸 (11/03/2025)
山側からは渓流が海に流れ込む。 (11/03/2025)
種前トンネル (11/03/2025)
トンネルを越えると2棟の倉庫らしき建物がある。明治末期に岡田家により建てられたもので、2棟のあいだに主屋があったものらしい。
11/03/2025
11/03/2025
種前の次は美谷を過ぎて鮫取澗へ。
鮫取澗の海岸 (11/03/2025)
幌別川の河口 (11/03/2025)
そして磯谷に入る。運上屋跡の碑がある。
磯谷場所 運上屋の跡 (11/03/2025)
碑文。
磯谷場所と運上屋の系譜
磯谷に松前藩の商場知行制が成立するのは慶長五年(一六00)のことである
その後近江商人の時代を経、場所請負制の衰退とともに松前枡屋(福島県信夫郡飯坂出身)が登場する 枡屋は当時箱館屈指の豪商で、後に角十と称する運上屋となってカクジュウ(屋号)佐藤を名乗った
磯谷はそれまで、運上金の多い年で二百両程度であったが、角十時代になると歌棄とともに発展し安政年間には運上金は千両をこえた
鯡の千石場所と喧伝され江差追分に謡われるまでになる
初代枡屋右ェ門は嘉永五年(一八五三)の創業時には歌棄・磯谷の両場所の運上屋であったが、三代目の時に歌棄を重三郎(のち改名榮右ェ門)に、磯谷を伊三右ェ門に分けている
磯谷二代目虎之助以降は榮五郎を名乗る 磯谷町野津登在の佐藤尭は二代目榮五郎の孫である 磯谷初代運上屋カクジュウ(屋号)佐藤伊三右ェ門から数えて五代目にあたる。
これまで通ってきた各漁村と同様、漁港と神社がある。
磯谷漁港 (11/03/2025)
海神社 (11/03/2025)
海神社はもともと小学校の敷地だったようだ。 (11/03/2025)
キタキツネを発見。タヌキにも遭遇した。 (11/03/2025)
野津登トンネル (11/03/2025)
トンネルを越えると、蘭越町・港に出る。尻別川河口が雄大に広がる。
11/03/2025
11/03/2025
川のそばには頌徳碑がある。
11/03/2025
碑文は正確には読み取れなかったが、明治2年に能登国に生まれた村岡平蔵という人が、明治33年に渡道し海産商を営んで巨万の富をつくり、尻別川架橋のために多額の寄付をしたということらしい。
この日は蘭越町の領域の端まで歩き、いよいよこの路線も雷電エリアを残すのみとなる。今日のルート。
この日の動画。