「島牧線を歩く 第3回」

島牧線の踏破3日目は、2日目から2週間後、12月に入ってからのことである。「島牧村を歩く 第1回」で触れたように、岩内→寿都を経て島牧に入る場合、公共交通機関による日帰りは不可能である。ただし、これは往路・復路双方で島牧線を利用した場合であって、歩いて寿都まで戻った場合には、この限りではない。今回は砂政泊から寿都ターミナルまでの6kmあまりを残しているだけなので、片道だけバスに乗れば良い。高速いわない号・岩内着10:46、雷電線・岩内発10:52、寿都着12:00。ここで砂政泊まで歩いて島牧線15:02発で寿都に戻るか、13:10発の島牧線で寿都を出て13:17に砂政泊で下車して歩いて寿都に戻るかという話になる。砂政泊でバスを待つより、早めに寿都に戻って町を見物したほうが良いと思い、後者の予定を取ることにした。

前回は11月の末でこれ以上ないほど天候に恵まれていたが、さすがに今回は雪が降っていた。

波濤百年の碑 (12/08/2025) – 寿都ターミナルの近くにある。

寿都で1時間ほどの待ち時間があるので、前回も立ち寄った道の駅で休憩する。外の柱に歴史写真が掲示されている。

明治34年の市街図 (道の駅の展示より) – すでに寺社が立ち並んでいるだけでなく、矢追の奥に競馬場があるのが目につく。
大正末-昭和初期の寿都鉄道・寿都駅。 (道の駅の展示より)
昭和30年代の寿都駅前通り。 (道の駅の展示より)
昭和初期の寿都港。 (道の駅の展示より)
横澗の袋澗 (道の駅の展示より)
鮫取澗の袋澗 (道の駅の展示より)

袋澗とは、ニシン漁の網元の番屋の前浜でニシンを袋網に入れ、一時的な保管場所としたもの。船溜まり、避難港、船着き場としても利用されたという。雷電線を歩いていた際には特に気にも留めていなかったが、ペンションメローさんで山本竜也氏の「寿都五十話」という本を読んで初めて意識するようになり、今回海岸風景に着目していたのである。彼によると支柱の跡があると袋澗である可能性が高いのだという。ちなみに前回は道の駅にて同氏の「続寿都歴史写真集 昭和二十一年~」、今回は「南後志-寿都・島牧・黒松内-に生きる」を購入した。もっとも、今回は旅の始めに本を買ったおかげで、ずっとこれを背負って歩く羽目になってしまった。

寿都漁港 (12/08/2025)

さて寿都ターミナルに戻ると、たしかにニセコバス・栄浜行きがいる!今日は12月8日月曜日、平日なのでニセコバスによる運行なのである。

栄浜行のバス (12/08/2025)

乗り込もうとすると、運転手さんに「どこまで行きますか?」と聞かれた。「砂政泊ってとこに行きたいんですけど」「何もないところですよ」と教えてくれる。下車するときも「ここなんですが、大丈夫ですか」と親切に声をかけてもらった。乗客は私一人だったから、ただ一人の乗客が「何もないところ」で下車したということになる。バス路線「深名線」を歩くで「新富」停留所に行こうとしたときを思い出した。あのときも乗客は私一人だった。

砂政泊は前回の終点・富浦から5km程度離れた場所にあり、寿都町の領域である。前出の山本氏の写真集では、かつては多くの人々が住んでいた様子がわかる。

砂政泊海岸 (12/08/2025)
山側を望む。 たしかに何もないところだ。 (12/08/2025)

弁慶岬に向けて歩き始める。「弁慶の土俵跡」がある。

弁慶の土俵跡 (12/08/2025)

弁慶岬に到着。1990年代に倶知安に住んでいたときは、車でよく来た場所である。歩いてくるのは初めて。

弁慶像が立つ。
この「常陸坊念西」なる人物については、1990年代にも説明があった。

ここでルートは海を離れ、「山中」「矢追」と過ぎれば、あとは寿都ターミナルに着く。したがって、ここで島牧線歩きはついに終了となった!

「矢追」を過ぎたところで「道道寿都停車場線」に入り、旧市街を歩くことにする。

寿都海岸 (12/08/2025)
寿都海岸 (12/08/2025)
寿都海岸 (12/08/2025)
寿都には放射性廃棄物の処分場を誘致する計画があり、反対運動の看板が立っている。 (12/08/2025)

ついで寺社の並ぶ一画を抜けて、町役場に行く。このエリアに旧寿都駅があったという。

町役場 (12/08/2025)
寿都駅の駅名標 (12/08/2025) – ちなみに写真はないが、樽岸の自治会館前には樽岸駅の駅名標がある。
寿都神社 (12/08/2025) – かつて「厳島神社」と呼ばれていた。

説明板より。

「寛永4年・九州の弁天丸が海難に遭遇した際、船主乗組員は神恩により生還を果たせたことに感謝して、船中の弁天神となる神鏡は町の一角にお祀りされたことに始まります。自然の驚異を与えたその強風は、弁天丸を目的地の北海道へ推し進め、寿都湾への回避と救助に繋がったことは、正に御神徳が発揮された御陰と確信いたします。弁天神は篤信と共に永く古き歴史を重ね乍ら寿都町の守護神となり、未来を見守り「中今」に受け継がれております。
明治5年・厳島神社と称して郷社に列格
大正14年・町名を冠して壽都神社に改称
昭和52年・国道改良に伴い現在地に移転
令和10年・御創祀四百年祭を斎行予定」

神社内に忠魂碑がある。

忠魂碑 (12/08/2025)

説明板より。

「この忠魂碑は日清戦争以後戦没された郷土出身の軍人および軍属の栄誉を讃え国に盡した「まごころ」を後の世に伝えるために大正六年十月寿都神社境内に建てられたものです、明治維新以後我が国の近代化が急速に進むととともに諸外国の干渉も多くなり明治二十七八年には新穀、明治三十七八年には満州を線状に大国である露国、又大正三年㐧一次世界大戦に独逸国と戦火を交え、さらに昭和六年満州事変、同十二年、日支事変を圣て同十六年、大東亜戦争に拡大、太平大西の両洋に亘る広範な地域で激烈な戦闘を繰り広げ昭和二十年八月十五日の終戦に至るまで、本町に於いても二百名を超す方々が尊い生命を国に捧げ祖国の礎となりました。戦後も数多くの人々が異国の空で抑留生活や強制労仂を強いられ母国を夢見ながら異郷の土と化した方々もありました、これらの春秋に富む若い多くの人達の生命が失れたことは悲しくも惜しむべきことであります、
今や我が国は敗戦より立ち上り平和国家として再び列強に交り、文化的にも経済的にも大きな発展を遂げ現今の様な恵れた社会となったのもこの方々の尊い犠牲の賜と永く明記しなければなりません、
こヽにこの碑をとうしてその遺徳を偲び永くその殉国の志を讃えるとともに再びかヽる悲惨な戦を惹起することなく平和な日本を築くための標として永き護持を期するものであります、」

寺社だけではない。ルーテル教会もある。山本氏によると、かつて正教会もあったという。 (12/08/2025)
陣屋団地 (12/08/2025) – 寿都には津軽藩の陣屋がおかれた。それにちなんで名付けられたものであろう。

時間があるので、「総合文化センターウィズコム」にある「文化財展示室」を見学していく。

節電のためふだんは消灯しており、自分で電気を点灯して見学する。 (12/08/2025)
朱太川の遺跡で発掘された縄文土器 (12/08/2025)
ニシン漁の様子 (12/08/2025)
当時の民具 (12/08/2025)
寿都鉄道・湯別駅の駅名標 (12/08/2025)
寿都鉄道の遺品。切符が展示されている。 (12/08/2025)
昭和初期を再現したものか。 (12/08/2025)

さて、いよいよ帰路につくことにする。14:05の岩内行のバスは寿都に戻った時点ですでに行ってしまっており、次の最終便17:30に乗ったのでは高速いわない号の最終便には間に合わない。そこで登場するのが1日3便の黒松内・長万部線である。最終便寿都15:50発に乗れば16:21にJR黒松内駅に着き、そこから17:00発の小樽行に乗れば良いということになる。総合文化センターの近くの「文化センター」停留所から乗車。

12/08/2025 – 15:53発。
黒松内行のバスが到着 (12/08/2025)

本日の歩行マップ。

本日の動画。