「永山地区を歩く」

旭川市永山地区は元は永山町という独立した町であり、1891年の屯田兵の入植に起源をもつエリアで、開拓の総指揮をとった永山武四郎にちなんで名付けられた。現在の永山は、最初に屯田兵の入った地区よりもずっと北側の土地も含んでいる。複雑なことに「永山町○丁目」「永山○条○丁目」「北永山○条○丁目」の3種類の住所が混在している。1970-3年の区画整理で、国道39号線に沿ったエリアに条丁目が割り振られ、さらに2009-12年に北永山の住所ができた。残りの部分が、従来からあった「永山町○丁目」という住所となっている。

赤色が「永山北○条○丁目」、青色が「永山○条○丁目」、緑色が「永山町○丁目」のエリア。

永山跨線橋を北東に渡って、永山地区に入る。

永山跨線橋 (04/06/2026)

日本製紙旭川工場は、永山7条に隣接するその名も「パルプ町」に立地している。

07/20/2026

南永山駅は石北本線で新旭川の隣にある駅。1986年と開業は新しい。住宅地の中にある極小駅である。

07/20/2026
07/20/2026
07/20/2026
07/20/2026 – 待合室は清潔。
07/20/2026

「上川農業試験場跡」は永山公園内にあり、石碑が建てられている。

07/20/2026

右の碑文は年表。

1886年 忠別太(現在の旭川市神居)に忠別農作試験所として創立
1890年 上川農事試作場と改称
1901年 北海道庁地方農事試験場と改称
1904年 上川郡永山村(現在の旭川市永山6条18丁目)に移転
1908年 北海道庁立上川農事試験場と改称
1910年 北海道農事試験場上川支場と改称
1926年 水稲品種改良試験に交雑育種法採用
1932年 水稲育種事業の拡張に伴い畑作試験縮小し水稲試験中心へ移行
1934年 当場初の交雑育種による優良品種「北海道1号」育成
1935年 水稲優良品種「富国」育成
1936年 耐冷性検定に冷水掛流し法採用
1942年 北海道農業試験場上川支場と改称
1950年 北海道立農業試験場上川支場と改称
1955年 庁舎(通称赤レンガ庁舎)完成し業務開始
1964年 北海道立上川農業試験場と改称
1980年 水稲「イシカリ」「しおかり」育成グループが日本育種学会賞受賞
1988年 水稲奨励品種「上育397号」育成、1989年公募により「きらら397」と命名
1991年 水稲「きらら397」育成グループが北海道新聞文化賞受賞
1993年 水稲「きらら397」「ゆきひかり」「彩」育成グループが日本育種学会賞受賞
1994年 上川郡比布町へ移転

そばには「きらら397発祥の地」の碑がある。

07/20/2026

碑文。

 永山に九十余年の長い間所在していた上川農業試験場最後の大型品種「上育397号」が昭和六十三年に奨励品種として誕生、試育栽培を経て平成元年(1989年)に一般栽培され、九月に公募で「きらら397」と命名、平成二年からが本格栽培となり「ゆめぴりか」「ななつぼし」の先駆けとして、二十五年を経過した現在も府県を中心に根強い人気があり、広く作付けされています。特に、全道作付け第一位を連続十五年、延べ十八年の新記録を樹立しています。
「きらら397」の出現によって北海道産米が見直され、現在では食味、品質でも全国トップクラスにランクされ、北海道米の評価を一気に高めた功績は非常に大きなものがあります。
これには育種に携わった研究員の努力と、生産者、農業団体関係者の協力があって実現したものです。その功績を讃え足跡を残すため上川農業試験場跡地に記念碑を建立致します。

永山神社は永山公園の近くにあり、永山武四郎を祭神とする神社である。

07/20/2026

境内には永山武四郎の銅像が立つ。このあたりは永山駅にも近く、永山の中心と言えるかもしれない。

07/20/2026

案内板より。

永山武四郎は、天保八年(一八三七 江戸時代)現在の鹿児島県に島津藩士の四男として生まれました。聡明な性格で信頼され明治五年(一八七二)開拓使出使となり、屯田兵制度ができると北方の警備と開拓を進め、上川地方の重要性に着目して開拓の基礎を築きました。
命じ二十二年(一八八九)屯田兵司令官、第二代北海道長官として仕事をされ、明治天皇のご親任が厚く、明治二十三年開拓の中心地に将軍の姓をとり永山村が誕生しました。明治二十九年、初代第七師団長に就任して、北海道の発展に貢献され明治三十七年(一九〇四)ご逝去されました。
永山誕生将軍は上川地方開発を代表する功労者であり、偉大な功績を遺され、大正九年(一九二〇)永山神社の守護神として祀られています。
ここに」永山神社創祀百年を記念し、永山村の開祖としての偉大な功績を、永久に子孫に伝え、神を、敬い祖先を尊ぶ気持ちを込め永山武四郎将軍の像を建立します。

神社の隣には「永山屯田公園」がある。永山公園とは別の公園である。

百年記念碑 (07/20/2026)

百年記念碑の碑文。

北海道庁令第六十一号明治二十三年九月二十日発令により石狩国上川郡に永山村二村の制定を見る 同日樺戸郡月形村に永山村外二村戸長役場を併置永山村の境界を南はウシシュベツ川北は石狩川を以て界とすと有り実に大雪山迄続く宏大無辺の大地であった 村名は明治二十一年九月第二代北海道長官永山武四郎将軍明治天皇に拝謁北海道屯田兵制計画言上時 北海道中心地点上川地方は広大にして重要なる地域でありこの地に大兵団設置計画を述べこの地未だ村名無く目下考慮中の旨付加時 明治天皇言下にお前の姓を付けるが良い将軍綸言辞退に由なく明治二十三年上川郡に三村誕生時中心地を永山村とし旭川村神居村に分け命名す 明治二十三年十月永山屯田入地決定屯田兵屋四百戸建築始まる十一月十県を選定し四百名の屯田兵募集する徳島県百十三戸 宮城県四十六戸 山形県四十二戸 岡山県四十戸 和歌山県三十九戸 高知県三十七戸 兵庫県三十六戸 鹿児島県二十三戸 新潟県二十三戸 愛知県一戸決定 第一陣明治二十四年六月七日 日の出丸二千屯兵庫港出港太平洋に出て関係各県港に依り屯田者家族を乗せ小樽港揚陸汽車徒歩にて六月十七日に永山村に着く 第二陣六月十四日 金澤丸二千屯和歌山県青崎港出港瀬戸内海に入り日向灘より鹿児島に至り玄界灘に出て日本海北上関係各県屯田家族を乗せ六月二十四日小樽港入港陸路経て七月一日永山村に着き四百戸入地が終り七月二十五日戸長役場月形村より永山村に移し永山村外二村を統治初代戸長本田親美任に就く 明治七年十月三十日屯田兵条例制定屯田兵は志願制で年令十八才以上三十五才迄体質強健兵農動作に耐える者任務は北方警備と蝦夷地開拓戸主は午前練兵午後開墾給与
土地一町五反歩追給地三町五反歩併せ五町歩家屋五間に三間半柾葦兵屋一棟十七坪五合寝具農具鍋桶食器米塩等支給せらる 屯田家族は住みなれた故郷を離れ祖先墳墓の地を後に北門警備の重任と蝦夷地開拓の雄図に胸滾せ再び還らざる覚悟と蕃地に骨を埋める心意気を持ち波風荒き津軽の海を渡り千古斧を見ない人跡未踏北海の荒野に斧を打ち鍬を振い酷寒肌をさす風雪と斗い朝に朝星を頂き夕べに北斗七星の輝を見る迄粗食に甘じ兵農併せ持つ屯田兵制度の重責に任じ奮斗努力す郷土の開拓発展にその生涯を捧げ今日見る永山村の基礎築かれる 然り乍ら今この碑前に立ち想う 大雪の霊峰東の空に悠久の姿を存じ石狩の清流長常に永山の歴史を湛と𨿽も昔日の面影は変る 永山開村百年に当り記念碑を建立し永久に顕彰する

左「永山村歌」の碑文。

日本の家庭に家紋が有る様に村にも村章が有り永山村の村章の制定は古文書を調べるも定かではないが昭和十年十一月二十六日永山役場庁舎新築竣功時正面玄関上位に村章が掲げられて居る事を想えば昭和の初期でないかと推察される村章は真中に永山と村名を黒にて書かれ陸軍の記章星を黄色で型どろ屯田兵村を表し圓座は無色で自然と平和を表して居る永山村は石狩川と牛朱別川に挟まれ水利に恵まれ全村水稲農村で上川百万石の基幹村であったので稲穂で全部を囲み勤労と敬虔を象徴した村章である村歌は大正九年開村三十周年祝典記念に文学博士尾上紫舟戦死絵の作詞で四章からなって居り作曲者は不明であるが単純な四分の二拍子調で自然にとけこみ歌いやすい名誉と歴史ある郷土の村歌で愛唱歌として学校行事には子供達そして事有る度に村民が声高く斉唱され親しまれてきました

屯田歩兵第三大隊本部跡 (07/20/2026)

永山駅は1898年の開業。日中は駅員さんが勤務しており、特急券の購入も可能である。

07/27/2026
07/27/2026
07/27/2026

永山せせらぎ通り」は永山2号川に沿った通りで、1987年に整備された。

永山2号川 (04/13/2026)
永山2号川 (04/13/2026)

北旭川駅は1968年開業の貨物駅。

04/06/2026
04/06/2026
04/06/2026

この一帯は北永山の南西にあたり、「永山」ではなく「流通団地」という住所となっている。ここを通るのは道北バス・78 永山1条線のみで、現在、旭川農業高校行きが1日1便出ているだけである。

北海道農産品ターミナル (04/06/2026)
流通団地の倉庫群 (04/06/2026)
流通団地1条1丁目の踏切 (04/06/2026)

北永山駅は1947年の開業。もともと現在地より0.6 km北にあったものを、旭川農業高校の通学の便のために現在地に移したというが、高校は1 km以上離れていて通学の便に供するとも思えなかった。しかし、実際ここから乗車してみると、高校生が何人かいたので、たしかに通学に利用されているようである。道北バス・78 永山1条線に「北永山駅前」という停留所がある。

駅に隣接する踏切 (04/06/2026)
駅舎とホーム。 (04/06/2026)
旭川方面をのぞむ (04/06/2026)
待合室は小さいが、不潔ではない。 (04/06/2026)

この近くには道北バス・永山出張所がある。

04/20/2026

永山新川は2002年に開削された延長5.7 kmの人口の川。牛朱別川の洪水対策につくられたもの。

国道39号線より。 (04/06/2026)
国道39号線より。 (04/06/2026)
第一北永橋より (04/13/2026)
第一北永橋より (04/13/2026)

永山開拓記念保護樹は樹齢120年。1891年の屯田兵入植の折、老人が杖を地面にさし放置したものに根が付き成長したと案内板には書かれている。

04/20/2026

上野ファームは米農家がイングリッシュガーデンを志向して始めた庭園で、春から秋にかけて営業、道北バス・69 上野ファーム線が1日3便、運行される。

04/20/2026

近くには「神水川」が流れる。牛朱別川に注ぐ小さな川である。

04/20/2026
04/20/2026

永山11区生産の碑。

04/20/2026

碑文。

 昭和三十七年、三十八年永山農協同じょうむりじ 安友義朗氏等の勧めにより 農業改善事業による水田区画整理事業を実施し 近隣地区に先駆けて大型水田が誕生する
 昭和四十五年五月十五日 農事組合法人 永山十一区生産組合の設立が認可された
(以下略)
 昭和四十六年八月生産組合の砦として会館を落成し 射的会館と命名した
 平成二年に後継者問題等農業情勢の変化により生産組合としては一応目的を達したので発展的に解散することとした

 平成三年四月三十日 農事組合法人永山十一区生産組合 解散記念登記完了
(以下略)

平成四年九月吉日記念碑を建立する

JR桜岡駅付近は東旭川町に属するが、上野ファームから牛朱別川を渡ればそれほど遠くはない。アイヌ語の’usis-pet’ (鹿の蹄の跡がほとりに多い川)が由来とのこと。案内板によれば「アイヌ民族にとっては鹿肉は大切な食糧の一つであり、蹄といえば鹿の蹄を意味しました。ただし現在の川筋は1932年の切替工事後のもので、それまではロータリーのあたりを流れ亀吉付近で石狩川と合流していました」という。

04/20/2026
04/20/2026
石北本線の鉄橋と踏切 (04/20/2026)
石北本線 (04/20/2026)
三河の赤松 (04/20/2026) – 由来は不明

桜岡駅は1922年の開業。駅付近の丘陵に桜の木が多いため名づけられたという。

駅前通り (04/20/2026)
桜岡駅 (04/20/2026)
桜岡駅 (04/20/2026)
桜岡駅 (04/20/2026) – 網走方向
桜岡駅 (04/20/2026) – 旭川方向
桜岡駅 (04/20/2026) – 高架橋より旭川方向
桜岡駅 (04/20/2026) – 高架橋より網走方向

動画。