道北バスの路線図を見ると、国道40号を北上する5 愛別線などの西側に「10線22」「13線16」「10線10」などにバス路線があることがわかる。一見、末広・春光の外側にある郊外路線のようにも見えるが、そのつもりで気軽に出かけるとこのエリアの広大さに苦戦することになるだろう。これらの路線は、かつての「鷹栖町」を1日1-2便だけ走るローカル線なのである。
現在の「東鷹栖町」は、もともと鷹栖、東鷹栖、末広、本町、春光、春光台、さらには愛別、比布を含む広大な領域であった。Melrose, Malden, Stoneham, Somerville, Medfordなどを分離独立させたCharlestownのような立ち位置である。CharlestownがBostonへの合併を選択したように、東鷹栖町も旭川市に編入されている。
1日目
17 10線22号線は1日1便。国道40号から歩くのが良さそうである。「男山公園前」で下車して北西に歩く。6.4 kmの道程である。10線22号には小さな集落が形成されている。


石碑の裏にある「沿革」には以下のように記されている。
明治41年7月19日 突哨教育所開校 1教室 53名
明治44年4月1日 近文第七尋常小学校に改名
大正13年6月1日 東鷹栖村立近文第三尋常小学校に改名
昭和4年4月18日 近文第三尋常高等小学校に改名
昭和16年4月1日 近文第三国民学校に改名
昭和22年4月1日 東鷹栖村近文第三小学校に改名
昭和46年3月21日 旭川市立近文第三小学校に改名 現在に至る
平成17年3月31日 開校より96年間 2.137名の卒業生をもって閉校
此の度の閉校にあたり、本校の輝かしい伝統と足跡を永久に讃え 茲に閉校の碑を建立する
ここはJR近文駅から7-8 km離れている。なぜ「近文」なのか。
和人が開拓に入る際、現在の旭川市北西部から鷹栖町・東鷹栖一帯に及ぶ石狩川右岸の広大な原野全体が「チカプニ原野」と呼ばれていた。アイヌ語の「チカプ・ウン・イ (cikap-un-i)」(鳥・そこにいる・場所)を語源とし、「鷹栖」はアイヌ語「チカプニ」を意訳(大きな鳥・鷹が棲む場所)したものなのである。そこで「近文第一」「近文第二」「近文第三」小学校があったということになる。このあたりの様子については、三箇線で行く鬼斗牛山と突哨山に詳しい。このサイトによると、2016年当時には上り7本,下り5本のバスがあったそうで、現状と比べると驚くばかりである。

碑文。
大雪山連峰を東に仰ぐ上川盆地の北東 石狩川の右岸に突出する突哨山を起点として山麓沿に展開する丘陵地帯は その地形上開拓当初水田経営の圏外とされていたが この地に新天地を求めた農業者の稲作への悲願止み難く 大正五年同志相謀ってあらゆる困難を乗り越え 大正八年水路の開さく水田造成をなし遂げて今日の基礎を築いた先人の偉業は燐として輝き その不屈の開闘魂は今 地域農業者に受け継がれて生々発展の道を進んでいる
即ち本道に於ける傾斜地水田の嚆矢として 重粘土小区画の水田経営に取り組んで来た六十余年の道程はまさに血と汗の苦難の連続であったが 昭和三十年代以降の目覚しい経済発展の下で 農業の規模拡大機械化への転換が必然となるや それに対応する必須条件としてほ場整備事業が重要課題となり 当時東鷹栖町(所和四十六年三月二日旭川市に併合)及び関係農業団体並びに受益農業者一大事業を企図して協議を重ね 昭和四十三年からの根強い運動が実を結び 昭和四十五年「鬼斗牛地区道営ほ場整備事業として着工爾来十ヶ年余の歳月を経て茲に見事な完成を見るに至った
日本農業が今日水田利用再編対策等を中心とする厳しい情勢下にあるとはいえ 今や往昔の地形その片鱗を留めぬままに歴史的な変貌を遂げた地域一円は関係農業者の経営改善への尽きざる創意とやゆまぬ努力により 名実ともに上川稲作の中核地帯として 輝かしい未来に向けて発展することを確信するものである
新しい農業の確立を目指したほ場整備の一大事業の総てを終えた今日先人の不撓不屈の開拓魂を讃えると共に この事業の推進に携わった方々に感謝の意を捧げ 地域一円の沃土を一望するこの地に一碑を建て後代に伝えんとするものである


ところで国道40号は「1線」である。「10線」というのはなかなか遠いことがわかった。1日1便なので10線22号から乗れるバスはない。だったらこの機会に「13線16号」(6 東鷹栖線)を訪れたほうが良いのでは?と思った。なにしろ「13線」となれば「10線」よりもさらに西であり、国道40号から再訪するとなるとけっこうな距離があるからだ。しかしこれは意外な難路だった。






「13線16号」は現代の「鷹栖町」に位置する。ここには「北斗バス待合所」と名付けられたバスターミナルがある。この北側の地域が「北斗」であることに由来するようだ。立派なターミナルだが、現在発着するバスは旭川への1往復(6 東鷹栖線)と土日祝片道1便の8 東鷹栖線のみである。



近辺には小さな市街地が形成されている。

ここから一気に国道40号に引き返す。「13線」から「1線」への行軍である。折あしく強い雨が降り始める。


見渡す限りの水田地帯。身を隠す場所もない中を雨に打たれて歩く。

この日の行程はこちら。実際には国道40号に出ただけではバスを捕まえることはできず、末広方面まで南下した。歩行距離21.9 km。

動画。
2日目
日を改めて6 東鷹栖線の残り区間を歩くために5 愛別線「1線19号」で下車、「10線15号」に向かう。7.1 kmの距離である。途中には八幡神社がある。

前回同様、そのまま「1線」(国道40号)に引き返すのは惜しい。1日1往復なのでバスで帰るわけにもいかない。ここから10線を下れば24 10線10号線の終点「10線10号」に至るので、歩くことにする。10線13号から10線10号の間には道北バスの路線はないが、かつてはあったようだ。現在はバス停跡を町営バスが利用している。ちなみに10線13号から鷹栖町に入る。



「10線10号」は鷹栖の中心街。その名の通り「プラザ・クロス10」というコミュニティセンターがある。「鷹栖町郷土資料館」は1961年に青年研究所として建設され、のちに役場として使われた建物という。


ここから道道251号を末広方面に抜ける。道北バスの路線図では理解しがたいが、10線10号から東に直進すると、末広4条11丁目に至るのである。傾斜のきついルートである。帰りは国道40号まで歩く必要はなく、末広4条7丁目からバスに乗った。


今回の行程。歩行距離は15.2 km。

動画。
3日目
次は34 10線10号線で鷹栖町に行き、10線10号からスタート。北野まで南下して折り返すルートを歩く。「北野」ももともと「○線○号」の名付けシステムに含まれていたが、住宅化に伴い独立した名称を与えられたそうだ。

「北野地蔵の由来」
大正九年十二月四日、根雪のおそい年であったそうな。
昨夜とうって変わって、霙が吹きつける空もようの中を、マントに身をとられながら二人の女の子がこの橋にむかっておったと。
女の子は一年生の加地笹江、吉村節子さんの二人であったと。
この橋は去年の水害によって、こわれたところを直すためにかり橋がかけられてあり、あゆみ板が氷つき、ほんにあぶないありさまであったと。
この日、北野小学校では授業を始めるころは大吹雪となり開校以来初めての集団下校の準備をしておったと。節子の兄たちは節子と仲よしの笹江がいないのに気がついて心配しておったと。吹雪の中をいそいで帰ってみると、二人は家を出たという。
「かり橋から足をすべらせたのでは・・・」
不吉な予感は間違いなかったと。
部落の人々や自警隊の人々が沢山出て川をさがし、赤いマントの節子さんはあわれ遺体となって見つかったけれど、笹江さんは何日さがしても、それきり見つからなかったと。笹江さんの父、朝五郎さんは笹江いとしと命日のたびに花と供物を川に投げ入れ供養しておったと。
この姿を見た人々はあわれに思い、この橋のたもとに地蔵さんを建立してみんなで供養するようになったと。
これ以来、ここでは水難、交通の事故もなくなり、このお地蔵さまは子供たちを守って下さる、ありがたい仏様であるそうな。
「9線7号」から東に歩くと春光台に至る。ここもかつての「大鷹栖」の一部である。福祉村(26 福祉村線)に立寄ってから、末広に抜けるつづら折りの道を歩く。


今回の行程。歩行距離14.0 km。

4日目
今回は永山駅からスタートし、永山駅に戻るルートを歩く。19 永山橋線と72・73 秋月橋循環線をカバーできた。歩行距離15.7 km。

5日目・6日目
5日目は花咲町7丁目でバスを降り、末広町で撮り損ねた(が敢えて行く必要もなかった)エリアを歩いてから春光台に入った。バス路線図では末広と春光台は非常に近いように見えるが、実際にはそうではない。両者の中間にある鷹栖神社は、1895年に鷹栖村の戸長役場が置かれた際に創祀されたという。歩行距離は11.4 km。

6日目は護国神社から春光、春光台、北野、本町とまわり、このエリアの探索を一応完了とした。春光は旧第7師団の本営が置かれていた場所であり、いまも自衛隊の広大な駐屯地がある。春光台はその西側の戦後に開拓された地域で、のちに住宅地となったエリアである。紛らわしいが異なるバックグラウンドがある。この日の歩行距離は13.8 km。
