「沼田町探訪記 – 東予編2」

前回の探訪では、中島地区、更新地区の奥に入ったこともあり、東予には行かなかった。2025年9月21日、残りの地区を歩くため、前回同様に多度志神社前を出発した。

東予に入ると、開拓碑と造田碑がある。

09/22/2025
09/22/2025 – 鐘が残されている。
「昭和二十五年七月一日東豫造田期成会誕生 西暦1958年7月8日造田完成」の碑。碑文は判読できなかった。
開拓碑 (09/22/2025)

碑文。

明治廿八年四月廿八日 伊豫国宇摩郡中之庄村及大町村より高倉要氏の尽力により北海道開拓希望者三十五名の一団 団体長宮崎春次氏引卒の下烈々の壮図を抱き五月五日 小樽に上陸(当時空知太迄鉄道有り) 深川芽生に至り地神農学士山室朝行氏の指導にて農耕を営み 食糧を蓄ふこと茲に二年 愈々永住の地(パンケホロマップ)入地準備のため廿九年晩秋先発八名本願寺農場(北竜)より案内人を頼み昼尚暗き原始林を切分け刈分け進み来り途中 熊狐出没の槐密林に露営水の所在知れず生米を食して飢を凌ぐなど長き語草を残す 斯くて共同の拝み小屋一戸を建て 帰る
翌三十年三月堅雪の荷物を運び全員入地す 各戸区制定まり千古の原始林に 開拓の斧鉞を加ふ丸木の柱割垂木笹の屋根割板の垣の床板菅の縄等用ひ手造りの小屋次第に建つ 当時沼田方面も人家稀にて村内最初の部落を形成し伊豫東部の団体なるにより東豫団体と称す
深川に交通の為多度志間に丸木舟を用ひ後私設渡船開かる郵便物は本願寺局迄三里半交替に受取りに行く木の
皮ラッパで熊を追ひつ藪の道或いは深き雪道を通したる当時の労苦は想像を絶する
大木熊笹を取り組み営々努力耕作せしも出来過ぎの為倒伏し其上しまねずみ多く稲黍麦等食ひ荒し収穫殆ど皆無(翌年より各県人漸次数を加ふ) 第二年涙の苦闘亦?ひわれず 苦難の中に団体長永眠し子息萬太郎氏其跡を継ぐ 第三年亦血涙苦難の連続に終る意悲壮天無情 苦闘三年?なしされど渡道開拓の初志益々固く不撓不屈萬難を克服して美田今日の基礎を築く
三十四年簡易教育所設置子弟の教育に努め 四十年には東豫神社を造営す此の神社は昭和三ねん合社され村社共成神社の拝殿となり安達ヶ丘に毅然たりこれが開拓十年なる一部落の氏神として建立されしを思ひ 当時部落民の敬神の念厚きと団結の強きを知り眞に感激の外なし實に尊き此の遺訓宣なる哉我東豫は開拓成功の団体にして其名北海道開拓史上燦然たるものあり 茲に開拓五十五年を閲し現住者相謀り碑を建て其功労を誌し以って後世に伝へんとす

そばにあるコミュニティセンターには地神がまつられている。

東予コミュニティセンター (09/22/2025)

東予地区を一回りした後は、国道275線を沼田駅に向けて引き返す。問題は16時05分のバスまで、1時間半くらい待ち時間が発生しそうなことである。田島公園、沼田市街は前回の訪問で見てしまっているから、駅付近ではすることはあまりなさそうである。そんなことを考えながら高穂地区を歩いていると、「秩父別」と書かれた枝道が見えてきた。歩きやすそうな新しい道路で、秩父別までは5kmとある。中央バス・沼田線は、一度国道233号まで南下し、秩父別を経て深川に向かう。5km歩いても秩父別からバスに乗れそうである。ここにはJR留萌線の駅もあるから、遅れても石狩沼田駅16時40分発の列車には乗れるだろう。それにここから沼田駅まで行くにしても2.7km歩かなければならないのである。

直進すると沼田中心街、左へ進むと秩父別へ (09/22/2025)

秩父別へ向かう道に入ると、まもなく雨竜川を渡る。

09/22/2025
09/22/2025

と、突然、地図にないバス停が出現。スクールバス専用のようだ。

8条東1丁目 (09/22/2025)
この段丘の先には川はない。(09/22/2025)

秩父別駅を訪問したことはなかったので立ち寄ろうと思っていたが(実は2018年に行っていた)、地図をみると「北秩父別」という駅も近くにあることがわかる。そちらに先に行ってみることにする。

北秩父別へ向かう道にて(09/22/2025) – このあたりは用水路が多い。

北秩父別、秩父別の両駅を訪問した後、秩父別市街から予定通りバスに乗って、深川に戻ることができた。この際に沿岸バス 留萌旭川線の中で撮影し損ねていた「秩父別1丁目」の写真も撮った。

この日の散策マップ。

この日の散歩動画。