「納内」

この地は屯田兵が入植し、開拓されていったという。その経緯は「屯田兵と北海道の開拓」に詳しく紹介されている。

駅の近くにある納内神社は1898年に創祀されたもの。

08/12/2025
08/12/2025

碑文。

明治二十八年 同二十九年に入植した屯田兵をはじめとする人々の心の拠り所として明治三十一年尚武山の中腹に小神殿を建立し天照皇大神を奉斎するを創祀とする
その後氏子の相互扶助の精神と敬神崇祖の顕われとが一致し 明治三十五年秋現在地に遷宮せしものなり
以来数度にわたる神殿の改修築 累年の変遷と曲折を経て ここに百年の星霜を重ねるところとなれり
よって創祀百年に当たり氏子の浄財により記念の諸事業を実行し この記念碑を建立して後世に創祀の意義を伝承せしむるとともに 郷土の安寧と発展に永劫の加護あらんことを希求するものなり

境内奥には、開村記念碑、忠魂碑、頌徳碑が並ぶ。

08/12/2025
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忠魂碑の裏側にある碑文。

 日露戦役にて名誉の戦死を遂げた屯田兵八名、現役二名の英霊を祀って、明治四十年八月神社鳥居西側に建立され、さらに大正十一年五月、社殿の西側に移遷されたが、後年、日支事変大東亜戦争へと戦役が拡大されて行き、その犠牲となった英霊は逐年増加して、現在百八柱の英霊が今日の平和を陰ながら喜んでいるものと思う。
 納内神社創祀百年を期して、苔むして台座も不安定となりたるを以って平成九年八月この場所に移遷せしものなり。

頌徳碑は深川市のサイトによると、明治29年屯田兵として納内に入植し、納内地域発展に功績を残した村上清孝が名誉村民の称号を与えられたのを記念して建てられたものという。

08/12/2025 – 碑文は全文を解読できなかった。

さらに「忠魂碑 改建記」という石碑もある。

08/12/2025 – こちらは漢文で書かれており、やはり判読は不可能だった。大正11年11月のもののようだ。

神社のそばには「納内開拓記念公園」が整備されている。

屯田の泉 (08/12/2025) – 「屯田兵とその家族約1000名の食事は、入植時この地でつくり分配していた。この水(水源)は、その時使用されていた飲料水である」とある。
屯田の鐘 (08/12/2025)
屯田歩兵第一大隊第五中隊本部跡 (08/12/2025)
りんごの碑 (08/12/2025) – 納内りんごの起源は明治二十九年にさかのぼるという。
馬頭観世音菩薩 (08/12/2025)
開拓百年 (08/12/2025)

碑文

 納内町は明治二十八・九の両年、屯田兵二百名とその家族が北方の警備と新天地開拓の大任を抱き、この地に入植して今日の納内がある
 老樹空を掩う昼なお暗い鬱蒼たる原始林を切り開き、地を覆う熊笹の根を掘り起こし、黒い大地に感動しながら開拓への情熱と愛郷の心を燃やし幾多の苦難に耐えて我が郷土を開かれた
 兵農の務めを両全、開拓の実を挙げ納内町の今日の礎を築いた先人の偉業を称えこれを受け継いだ人々の遺徳に深甚なる謝意を捧げ、ここに開拓百年を迎えるに当り町民と所縁の人々の願いを込めて、由緒ある屯田本部跡地に記念碑を建立し、培われてきた開拓魂と郷土愛の精神を後世に継承すると共に、ふる郷悠久の平和と繁栄を願って止まない

ひきうす (08/12/2025)

妹背牛・深川ではJR函館本線と国道12号線はかなり離れており、
滝川-深川間のバス路線には、鉄道沿いのもの(中央バス・深滝線)と国道経由のもの(滝深線)がある。
深川-旭川間では、前者が中央バス・深旭線、後者が道北バス/沿岸バスの留萌旭川線ということになる。

中央バス・更進線は、深川市街から納内までは鉄道に沿い、納内で方向を転じて国道12号に出るという異色の路線だった。
国道では神居古潭の手前で芦別方面に転じるものの芦別には達することなく、いまだ深川市内の更進を終点としていたのである。
残念ながら2021年9月末で廃止された。

納内駅。(動画は2021年)

08/12/2025
08/12/2025
08/12/2025 – 2025年春からKitacaエリアに入ったため、ホームに改札機が置かれている。

2021年訪問時の更進線の停留所。

2025年のwalkthrough動画。