Needham Heights
Needham Heights駅の周辺にも広場があり商業地区が形成されている。Needham Heights Commonは、1884年に地主のIsaac Burrから土地を購入して形成されたもの。Needham History Center & Museumも参照。
Carter Memorial Methodist Church (Needham History Center & Museumを参照)の由来は18世紀にさかのぼる。19世紀後半にWilliam Carterの寄付した土地に教会が建てられ、1950年代に建て替えられ彼の名がつけられた。現在の建物は2016にできたもの。
Waban Common
Newtonを構成する13の村のひとつ、Wabanの中心部にある広場。Waban駅やWaban Branch Libraryが近くにある。
Greek Evangelical Church of Boston
Newton Centreにある教会。ギリシアのプロテスタント宗派(つまりギリシア正教ではない)のもので、公式サイトによると1972年にFirst Congregational Church of Newtonから建物を買い取ったという。the First Congregational Church records in Newtonによると、この会衆は17世紀に誕生し、1972年に解散しているようなので、建築年代は不明。Newton Highlands Historic DistrictにあるFirst Congregational Churchとは別な会衆と思われる。
Johnny Kelley Statue
Newton市役所の近く、Walnut StとCommonwealth Aveの交差点にこの像は立っている。ボストンマラソンを長年走り続けたJohnny Kelleyを記念する像である。
台座の碑文。
「心は若い by Rich Muno
この彫刻はボストンマラソンの男、Johnny Kelleyの精神を不朽のものとする。2人の走者は意気揚々と手を取り合っているのは、ボストンで初めて勝利した27歳の時と、58回目に完走した84歳の時のJohnny Kelleyを表現している。Johnny Kelleyはボストンマラソンで1935年と1945年に優勝、7回2位になり、トップ10には18回入った。1人の人間の業績以上に、この彫刻は若い心を持つ者の魂に献呈するものである。」
Walking Wellesley
Wellesleyの見どころの多くは、Wellesley Farms、Wellesley Hills、Wellesley Squareにあり、それぞれにコミューターレールの駅があるが、Wellesley Farmsくらいなら、Greenline DのWoodlandまたはRiversideから歩くことも容易である。
Newton Lower Fallsを過ぎてCharles Riverを渡るとWellesley Lower Falls地区に入る。Eaton-Moulton Millがあり、市街地も形成されている。
少し進むとSt John the Evangelist Churchという教会がある。
教会のサイトによると1881年の初代の建物に代わって、1901年に建てられたようだ。教会の近くには、古い家も散見される。
Wellesley HillsとWellesley Squareはそれぞれ独立した核を持つ市街地を有する。街のメインストリートであるWashington Stを行けば1.5マイルほど離れている。Fuller Brook Parkを歩くのも良い。
David H. Locke (1927-2019)はWellesleyに長く住んだ人物で、州の下院および上院議員などを務めた政治家。
Wellesley役場のあるMorton Parkには、面白い石碑がある。
「1882年のサンクスギビング・デイ、11月30日にこの場所で初めて行われ、Wellesley 4対Needham 0であった、国内最古の高校フットボールの対抗試合・Wellesley 対Needhamを記念し、この最初の試合を組織したWellesley のキャプテン、Dr. Arthur J. Oldmanを称えて。1982年10月31日。」
Wellesley 対Needhamの対抗試合は以後140年以上にわたり、年に1回のペースで続いているが、All-Time Wellesley-Needham Football Game History, 1882-2022によるとNeedhamが勝ったことは一度もないようである。
Morton Parkから地続きの役場一帯のエリアはHunnewell Parkと名付けられている。H. H. Hunnewellが土地を寄付したようだ。
Reservoir Yard
Green Line DのReservoir駅には、電車の発着するホームの反対側に、いくつか引き込み線がある。その先にあるのが車両基地・Reservoir Yardである。
上の写真にある手前のレールを背面方向にたどっていくと、なんとGreen Line Cの終点・Cleveland Circleにつながっていることがわかる。
Green Line Cは1889年に開業し、1896年にBoston College方面まで延伸。BostonとNewtonの境界を終点とし、ここでAuburndale方面に向かうCommonwealth Avenue Street Railway(のちにMiddlesex and Boston Street Railway)と接続していた。しかし1915年には当時はまだ鉄道駅だったReservoirまで路線が短縮。のちにGreen Line Dが路面電車路線となったことで、Resrvoir Yardは両線の車両基地として使われることになったのである。
上の写真ではヤードからCleveland Circleに向かって線路が出てきているのが見えるが、車道の中央にある島状の歩行者待機所に線路が接している。もとは電車の乗降などに用いられていたのかもしれない。
この線路、実はさらに分岐してBrighton方向へ向かい、少し先のChestnut Hill AveでGreen Line Bと合流する。Green Line BはCleveland CircleやReservoirを経由していたGreen Line Cのルートを変更したもので、Boston Collegeを終点とするもの。ちなみにB Lineの車両基地は、Boston College近傍のLake Street Yardであり、Resevoir Yardは使用していないようである。
Boston近郊のStreet Car (路面電車)の歴史は鉄道と比べても複雑すぎ、資料となる本もあまりないが、Reservoirにくるとその歴史の一端を垣間見ることができる。
周辺の動画。
Framingham/Worcester LineとGreen Line D Branch
Newton市内を東西に横断する交通機関は2つあり、北側を走るのがコミューターレールFramingham/Worcester Line、南側を通るのが地下鉄(路面電車)Green Line Dである。
Framingham/Worcester Lineは、Newton Corner, Nonantum, Newtonville, West Newton, Auburndaleを通るのに対し、Green Line DはChestnut Hill, Newton Centre, Newton Highlands, Wabanをカバーしている。
実はこの2線の歴史は古い。Framingham/Worcester Lineのほうは、1834年に部分営業を開始したBoston and Worcester鉄道をベースにしている。B&WはのちにNew York州北部の州都Albanyに至るBoston and Albany鉄道となり拡大している。以下の地図は、Ronald Dale Karr著「The Raild Lines of Southern New England (Second Edition)」(Branch Line Press, 2017)より改変したもの。
B&Wが最初に開業した区間がSouth Station-West Newtonであった(乗客が駅馬車に乗り換えるためのRailroad Hotelがあった)ことを考えると、ここでいうNewton駅は現在のWest Newton駅ではないかと思われる。Auburndaleを出た後、Riverside (現在のGreen Line Dの終点)を経由しているのも興味深い。ここからNewton Lower FallsおよびNewton Highlandsに向かう枝線が出ていた(青線)。また、のちにGreen Line Dの一部となるBrooklineに至る枝線が1848年に開通している(緑線)。
他方、Brooklineより先のNewton, Needhamを経てさらに南下すべく鉄道建設を開始したのがCharles River Railroad。1852年にはNewton Upper Falls、1853年にはNeedhamまで開通した。さらに他社と合併を繰り返し、New York and Boston鉄道、New York and New England鉄道と名前を変えて営業を続けていたが、1883年、資金不足に陥り、Brookline-Newton Highlandsの区間をB&Aに売却。1886年にB&AがRiversideからNewton Highlandsに至る枝線(Highland branch、地図の青線)を開通させたため、Newton市内に一種の環状線がで形成され、’Circuit’と呼ばれた。こうして、Boston-Brookline-Newton-Riversideを結ぶ現在のGreen Line Dの原型が出来上がったのである。
現在は環状線はなくなり両線の間に交通はないが、Riversideから北方に向けて、たしかにコミューターレールへの連絡線のようなものが見える。使用されているかどうかはわからないが、かつての名残とはいえるのかもしれない。
ちなみに、環状線の形成、Charles River鉄道の衰退に伴い、Newton Upper Fallsに至る路線は廃止され、鉄道網から取り残されることになった。鉄道跡は現在、Upper Falls Greenwayと呼ばれる遊歩道となっている。このいきさつは社会医療法人こぶしの機関誌「うえなえ」にも掲載されている。
Saugus Branch
Saugus Branch RailroadはEastern RailroadのWest LynnとBoston and Maine RailroadのEdgeworthを結ぶ路線として1853年に開業した。EasternとB&Mは、当時ボストン-メイン間のルートで激しく競合していたが、海沿いを行く前者と内陸を行く後者をつなぐ架け橋として、Boston and Maine Railroad社が建設した。しかし1855年にはEasternに買収され、B&Mへの乗り入れ線を廃止、代わりに南のEverettに向けて延長線を建設した(Wikipediaにはこの新線のみ記述されている)。1853年旅客取り扱い廃止、その後も細々と生き残っていたが2010年に正式に廃止、2013年に軌道を撤去。跡地はNorthern Strand Community Trailとして活用されている。下の地図は、Ronald Dale Karr著「The Raild Lines of Southern New England (Second Edition)」(Branch Line Press, 2017)より改変したもの。
なお、この項の内容は社会医療法人こぶしの機関誌「うえなえ」に掲載される予定。
Stoneham branchとWoburn Loop
Stonehamの文化遺産で見たように、現在のこの街の公共交通機関はBus 132のみである。しかしここにもかつて鉄道の来ていた時代があった。もともとBoston and Lowell RailroadとBoston and Maine Railroad に挟まれ、鉄道網から取り残されるような形になっていたのだが、1862年、B&Lから分岐する支線として、4kmほどの区間に6駅を擁して開通している。1958年に実質的に廃止となった。支線の痕跡は、Boston and Maine Railroad Depot (B&Lは最終的にB&Mの傘下となった)をはじめ、Stoneham内でもいくつか見られる。
Woburnの交通機関はBus 134であり、Lowell LineのAnderson/Woburn駅は市街地からかなり離れているが、やはりB&Lの支線としてWinchesterからWoburn Centerまでが1844年、さらにWoburn Junctionで本線に合流する’Woburn Loop’が1885年に完成している。しかしWoburn Centerを通る支線は1959年に廃止となった。
Spot Pond
Spot PondはStonehamの南端に位置する池で、Middlesex Fells Reservationと呼ばれる自然保護区域の中にあり、遊歩道が張り巡らされているトレッキングエリアである。湖畔には史跡John Bottume House、Metropolitan District Commission Pumping Houseがある。17-19世紀にかけて湖に流れ込むSpot Pond Brookという川を利用した水車がいくつも建てられ、ゴム産業が栄えた。「Haywardville」と呼ばれる集落を形成していたが、現在は消滅している(Spot Pond Archeological District)。このエリアに行くバスはWellington駅を出るBus 99で、湖のそばにある病院を終点としており、日曜日も運行している。
湖畔の様子。
Walking Woburn – 中心部編
Woburn Commonに近い、市中心部をみていく。まずはWoburn Common。
続いて中心部の施設。
「354」という路線の停留所がある。廃止路線のように見えるが、実はBurlingtonからやってきて、Stonehamを通り、ボストン中心部のState駅に通じる急行バスなのだった。通勤用と思われ、平日のみの運行である。
Walking Woburn – 郊外編
Bus134の終点、North WoburnからWoburnの中心部まで3マイルほど歩いてみた。
Main Stを下っていくとJohn M. Ferullo Fieldという野球場がある。John M FerulloはWoburnの生まれで、1943年にイタリアで戦死した人物。彼を称えて米国旗、MIA/POW (戦場行方不明者と捕虜)の旗、陸軍、海軍、海兵隊、空軍、沿岸警備隊の7本の旗がはためいている。
Ferullo Fieldの南端にKiwanis Parkがあり、Middlesex Canalの項で触れた通り、Main Stをはさんで反対側にLoammi Baldwinの像がある。
碑文
「Middlesex Canalの経営者の一人であり、第一の建設者。
マサチューセッツ湾植民地の紙幣の発行にサインした委員会のメンバー。
州の憲法下で就任したMiddlesex郡の最初の保安官。
Woburnにおける物事のリーダー。」
NRHPに指定されていない古い建物も多い。
Winchester Savings Bankの支店がWoburnにもあった。
Walking Winchester – 中心部編
Winchester Centerで見つけたものをあげていく。町内の記念碑などについては、Winchesterの公式サイトにまとめられている。
Edward F. O’Connell Veteran’s War Memorial
Edward F. O’Connellは1926年8月26日生まれ。第二次世界大戦に従軍している。復員後、30年以上にわたりWinchesterのVeteran’s DayおよびMemorial Dayの祝賀セレモニーを運営した。VFW(Veterans of Foreign Wars)の幹部会員、さらにはさまざまな公職につき町政にも尽力。2005年に亡くなったあと、彼の功績を称えてTown Hallの隣の広場に彼を名をつけることにした。
War Monument
第一次世界大戦において、Winchesterは入隊した者全員が海外で戦うという名誉を得た。そこで戦後、兵士全員の名前を記念する碑を建立する機運が高まり、1926年10月3日に完成をみるに至ったのである。
McCall School
1932年に建てられた中等教育の学校建築。Junior High→高校→Middle Schoolと変遷をたどっている。名前はSamuel Walker McCall知事にちなんでいる。歴史はWinchesterのサイトに詳しく紹介されている。
Waterfield Bridge
Mill Pondの下流でAberjona Riverを渡る橋。このあたりが以前Waterfieldと呼ばれていたことにちなむ。1914年に架け替えが決まり、現在の姿となった。
Commercial Buildings
Winchesterは人口20000人強の町なので、中心街も大賑わいというわけではないが、人は集まっている。
Lowell Line
もとはBoston and Lowell Railroadであり、現在はMBTA Commuter Railである。これほど街のど真ん中を通り抜けるのは珍しいが、Winchester Center駅は老朽化と再建のため2021年から閉鎖中だ。列車はただ通過していくだけ。バス134は街中を通りはするが、なぜか中心街には停車しない。まあ平均世帯年収が200,000ドルの町だから、公共交通など不要ということなのかもしれない。
Winchester Fish Ladder
中心街に入ってくるAberjona RiverがMill Pondになる境目にある。滝のような水音が聞こえるが、段々になっていて魚が登れるのだそうだ。豊平川などにもこういう段々はあるが、こんな滝壺のような代物は見たことがない。
Site of First House
1920年、マサチューセッツ州300周年記念で設置されたもの。
「1640年、”Waterfield”(この地区の旧名)を探検するためにCharlestownから送られたパーティを率いたEdward Converseにより(最初の家が)建てられた。行政委員を24年間、助祭を19年間つとめ、1662年王の手紙に関して不敬に話したため逮捕された。」
Winchester Centerの動画。
Walking Winchester – 郊外編
Winchesterを歩いていて見つけたものをあげていく。町内の記念碑などについては、Winchesterの公式サイトにまとめられている。
John Harvard’s Land
1638年、この約120エーカーの土地がCharlestownの町により、教育者John Harvardに与えられた。彼は同年31歳で亡くなり、その遺産の半分を彼の名前のつけられた大学に寄付した。
Second Congregational Church
中心街のランドマークはなんといってもFirst Congregational Churchだが、Second Congregational Churchというものも街の北側にある。歴史は長く、もとは1880年代より活動していたが、現在の教会の建物は1926年に完成した。
Leonard Field
Augustus M. Leonardは1895年8月27日Winchesterに生まれ、1918年に志願して軍隊に入る。ときは第一次世界大戦の最中で、2カ月の訓練の後、フランスの最前線に送られ、同年9月28日に戦死した。この運動公園は、彼の名にちなんで名付けられている。
Elliott Park
Alfred Dykes Elliottは1901年4月15日Winchesterに生まれ、建築家として活躍した。町内に数多くの住宅・建物を建設し、Winchester HospitalやCooperative Bank建設の指揮をとった。Winchester Rotary ClubおよびWilliam Parkman Masonic Lodgeのメンバーでもあり、町の税務調査官も務めていた。彼が1961年3月21日に亡くなったのち、Rotary ClubはWedge Pond近くの土地をElliott Parkと名付けて整備したのである。
State of Mind Histerical Committee
これは歴史的記念碑をもじったジョークのようなプレートなのだろう。’Historical’をもじって、’Hysterical’をわざわざ’Histerical’に言い換えている。
「1775年4月18日、Pau Revereは、仲間の愛国者にイギリス軍がくると警告するために有名な騎行を行った。これとは違って、われわれは訪問者がくるという警告は何も受けない。」
Chefalo Park
Harry Enrico Chefaloは1906年8月2日にWinchesterに生まれ、生涯をこの街で過ごした。20歳で配管業を立ち上げて成功、さらには町政において22もの異なる委員会で働き、Winchester Rotary ClubとSons of Italy Clubのメンバーでもあった。投票によりWinchester Outstanding Citizen Awardにも選ばれている。2001年に94歳で亡くなったのち、ここを彼にちなんだ公園としたものである。
Bellino Park
Joseph M. Bellinoは1938年3月13日生まれ。Winchester高校ではフットボールの天才といわれた。海軍学校に進んだが、そこでもフットボール才能を発揮、陸軍のチームを相手に活躍した。第26回Heisman賞を海軍学校で初めて受賞している。しかし、卒業後はプレイすることはなく、1961年に少尉として退役した。退役後Patriotsの選手として活躍。引退後の2006年にこの公園に彼の名が与えられた。
Somerville Junction
2022年に新たに開通したGreen LineのMagoun Sq駅とGilman Sq駅の間にSomerville Junction Parkがある。1880年頃には、Boston and Lowell RailroadがBoston-Lowell間とBoston-Waltham-Northampton間の鉄道(のちのCentral Massachusetts Railroad)を運行していたが、その分岐点がこのあたりだったようだ。
実際、Green LineはコミューターレールのLowell Lineと並走する形になっている。しかしWalthamへ向かうFitchburg LineのほうはFitchburg Railroadのルートであり、Porter Sqを経由する。のちに廃止となったCentral Massachusetts Railroad のWalthamにある遺構がLinden Street Bridgeである。
Prospect Hill Tower
Revolutionary Warにおいて植民地軍が要塞化し、またCivil Warにおいては訓練所となった場所。塔についているプレートによると、1775年6月17日、Bunker Hillの戦いに敗れて撤退してきたGeneral Putnamはこの高地を占拠し要塞としたという。大陸軍によるボストンの包囲線の一部であり、9カ月にわたりイギリス軍の砲撃に耐えた。この塔自体は1904年に建てられたモニュメントである。頂上の旗はGrand Union Flagといい、アメリカ国旗の前身。
The Somerville Home
「2019年にRiverside Community Careができるまで、117 Summer Streetの建物が、かつてThe Somerville Homeが私立の非営利団体として、Somervilleと周辺の町からの老人に長期のケアハウスを提供していた。
1898年に設立されたThe Somerville Homeは、1927年にこの場所に移動し、59人の入居者に個室の寝室、1日3食の食事、そして24時間のケアを提供していた。The Sommerville Homeは老年の市民に継続可能な住居サービスの質の選択肢の提供に取り組み、居住者には体と心、魂を最大限に使うことを奨励していた。
この老健施設は2019年に閉鎖されたが、この建物がコミュニティに確実に貢献するように、The Somerville Home理事会は、この場所で広範囲のサービスを提供するためRiverside Community Careを建てた。」
JFK Park
1976年、John F. Kennedyを記念してMemorial Drive沿いにつくられた公園。特にみるべきものはないが、門柱に彼自身の言葉が刻まれている。
「力を生み出す者は国家の偉大さに不可欠な貢献をするが、力に疑問を呈する者は、特にその疑問が関心を持たれないとき、自分たちが力を使っているのか、力が自分たちを使っているのか決めるのに、同じく不可欠な貢献をする。」
(Amherst Collegeにて名誉学位を受けた際の挨拶。10/26/1963)
「私は、アメリカが優美さと端麗さを恐れず、自然環境の美しさを守ること。。。アメリカが強さだけでなく文明的にも世界中の尊敬を当然のこととして受けるのを待ち望んでいる。」
(Amherst Collegeにて名誉学位を受けた際の挨拶。10/26/1963)
888 Memorial Drive
もともと、ここにあったHarvard University Design Schoolの建物はほとんど使われずに放置されていた。1971年3月6日、100名以上の女性たちが占拠した。彼らは、低所得者に対する住宅供給、女性センターの設立、そしてその目的が達成されるまでここを“Liberated Women’s Center”として集団で居住することを要求した。彼らは10日間にわたり籠城、その結果、低所得者の住宅が整備され、 Cambridge Womens Centerができたという。
Tudor Ice Company
Cambridgeのはずれ、Cambridge Home for the Aged and Infirmの近くにこの看板が建っている。Tudor Ice Companyは、Frederic Tudorにより創設された会社で、マサチューセッツで切り出した氷を輸送・販売していた。その販売先はカリブ海諸国、ヨーロッパ、遠くはインド、香港にまで及び、彼はボストンの「氷の王」と呼ばれていたという。この場所の近くにあるFresh Pondからも販売用の氷が切り出されていた。現在、Fresh Pondが厚い氷で覆われる様子はあまり見ないが、やはり地球温暖化のためなのだろうか。
Women of Menotomy
Arlington Center消防署の敷地内に小さな石碑がある。独立における女性たちの忠誠と活躍を称えるものである。
1775年4月19日の闘いにおいて、退却してくる一部のイギリス兵は戦意を失い、Spy Pondに武器などを放棄して、近くに住んでいたRuth Butherick (‘Mother Butherick’と呼ばれる)に降伏を申し入れた。彼女は彼らの身柄をCaptain Ephrain Frostに預け、彼らに「国に帰ったら、年寄り女が6人の兵士を捕虜にしたと、ジョージ王に伝えてやりなさい」と言い放ったという(‘Menotomy Minuteman Trail Guide’より)。
Western Greenway
公式サイトによると、Waverlyに近いBeaver Brook Reservation、Beaver Brook North Reservation、Stonehurst、Lyman Estateなどをまわる広大な歩行コースになる計画という。
歩いてみた動画。
Calvary St. Footbridge
WalthamにあるCharles Riverを渡る橋。Mary T. Early Footbridgeというのが地図上の名前らしい。裏道のようなところを通り、Charles River Greenwayと交差する。歩行者専用橋である。
歩いてみた動画。
General Putnam Headquarter
1775年、Israel Putnamはここに司令部を置いた。彼はBunker Hillの戦いでの活躍で有名である。
Edith Lesley House
Lesley Universityの前身、Lesley Schoolを創設したEdith Lesley(1852-1953)の家。彼女は1915年にこの家を買い取り、その後ここはLesley Schoolの本部でもあった。
Revolutionary Earthworks
1775年、この場所はPatriotsの野営地を英軍の攻撃から防御するために要塞化された。
John “Muggsie” Kelly
Harvard Stationの近くにある。彼は生涯をHarvard Square Stationの建設に捧げた。
J. Milton Clarke and Lewis Clarke
住宅地にある目立たない看板である。一読の価値があると信じる。
LewisとJohn Milton Clakeは、KentuckyのMadison郡に生まれ、Cabmbridgeにおける反奴隷運動の多くの貢献者のうちにあった。彼らは、Revolutinary Warの白人の退役軍人と、プランテーションの所有者Samuel Campbellが黒人との間につくった娘との間で生まれた息子たちであった。Campbellは死に際して娘とその10人の子供たちに自由を約束した。しかし、彼の後継者たちは相続の権利を主張し、彼らはオークションで幾人かの新しい主人に売られた。肌の色がlight complexion (黒人よりは明るく白人よりは暗い色)であったため、LewisとMiltonは「白人奴隷」として注目された。
兄弟はOhioに逃亡し、1842年にOberlinで再会した。1843年にCabbridgeに到着し、Broadwayに近いProspect Stに住んでいたボストンの商人Aaron Saffordのもとに滞在した。彼らは、奴隷廃止運動教会として知られていた第二福音派会衆教会に加わった。彼らの牧師Reverend Joseph C. Lovejoy (奴隷廃止運動における有名な殉教者Elijahの兄弟)は、1846年に彼らのことを書いた本「Narrative of the sufferings of Lewis and Milton Clarke」を出版した。
Clarke兄弟の名声は偶然により高まったのであった。Saffordの妻MaryはDr. Lyman Beecherの娘であり、Harriet Beecher Stoweの姉妹でもあった。彼らの話を聞いた後、MaryはStoweがCambridgeで彼ら兄弟に会えるよう取り計らった。Stoweは「アンクル・トムの小屋(Uncle Tom’s Cabin)」における登場人物George HarrisをLewisをモデルに創作した。
LewisはCivil Warの前にCambridgeを去り、逃亡奴隷によって創設されたOntarioのDawnに向かった。彼はのちにOberlinに戻り、死ぬまでそこに住んでいた。
MiltonはCambridgeに残り、仕出し屋・ウェイターとして働いた。彼は大きく拡大した家族を養い、Norfolk StとFlorence Placeの角に1851年から死ぬまで住んだ。彼は自分のパトロンであったAaron Saffordの後を継いで市評議会員となったが、これはCambridgeの公共機関に選挙で選ばれた最初のアフリカ系アメリカ人であった。彼は1872年に再選されたが、米国財務省のBoston支部の通信員になるために辞職した。そこではCabridgeにいた別のアフリカ系アメリカ人John J. Fatalも82歳で死ぬまで33年間働いていた。
Old Burying Ground in Cambridge
1635年に開かれた墓地。初期の植民者やHarvardの学長らが埋葬されている。Cambridge Common Historic DistrictにあるFirst Parish in Cambridgeの隣。
Misses Sarah and Emma Cary House
1881年建築のSarahとEmma Cary姉妹の家。彼らはRadcliffe Collegeの共同創設者で初代学長のElizabeth Cabot Agassizの姉妹であった。
St. John’s Literary Institute
アイルランド系移民とためのカトリック友愛団体のあった場所。1863-1920年にかけて、East Cabmridgeのコミュニティセンターであった。
Washington Allston’s Studio
ここはWashington Allstonが絵をかいていたスタジオであり、彼自身は近くの家に住んでいたという。
William Brewster House
William Brewsterは鳥類学者(1851-1919)。彼はここに1887年から死ぬまで住んでいた。
East Lexington
この歴史地区は、Lexington Centerより離れ、Arlingtonに近い位置にある。Stone Building、Follen ChurchはNational Register of Historic Placesに登録されている。町のサイトには他の多くの建物が紹介されている。
East Lexingtonは、その強いアイデンティティのもと、19世紀に発展してきた。毛皮工業がいくつか、Lexington Centerにはない工業の基礎を街にもたらした。これら二つの地域のライバル関係は、時に緊張をもたらした。East Lexingtonの住民たちは、町役場や高校が新しくLexington Centerに建つことに怒りを募らせていた。しかしこのようなライバル関係は、より以前に起こったAndovarやNewburyといったYankee townsのように完全な決裂には至らなかった。
East VIllage (East Lexington)にいける公共建築の集積は、車利用者には必ずしも明瞭ではないが、歩行者であればこれらの建物の間を快適にあることとができることに気づくだろう。教会、講堂(現在の図書館支所)、商店、郵便局(かつてはPleasant Stの角にあったレンガ造りの建物)、そして教会の反対側、今の駐車場に建っていた学校などである。
18-19世紀におけるMass Ave沿いの商業交通はかなり大量であり、多くの人々がTavernの看板を出していた。1825年以降、20年間にわたり、ここBowman Tavernは羊、七面鳥、牛をBrighton食肉処理場に運ぶ運送業者や農民に賄いを提供していた。彼らは、ここからMass AveをCambridgeまで下り、Harvard College。ついでCharles Riverの大きな橋を越えて(現在のHarvard Stadiumに近いLarz Anderson橋)、上流のBrightonの牛市場まで移動していった。(Bowman Tavern前の看板より)
East Lexingtonの住民にとって、この角にあるレンガ造りの店は長い間、人々の集う場所として人気があった。Penny candyや布、あるいは道具類を買うことができ、また郵便局でもあった。上の階には講堂やのちには図書館の支所もおかれた。
今日、この古いレンガ造りの店Conutry Storeの外観は、East Lexington Historic Districtによって保護されている。大きな窓をのぞいて、建物はおおむね1828年にEli Robbinsが建てたときのままのようであり、ここはLexingtonにおける最初のレンガ造りの建築である。(Country Store前の看板より)
これは1830年頃に最も栄えたNew Englandの町における優れた例である。のちにより流行の様式、Greek Revival styleに改装されている。ときに家屋は小メインを通りに向けるように改築されるか、円柱が加えられ入口が設計しなおされることになった。この家ではレンガ建てのFederal suqraeの形が、所有者のAmbrose Morellによりそのままの形で残された。張り出し屋根とイオニア式円柱が正面に加えられている。Morellの孫娘Ellen Dana、すなわち作家Richard Henry Dana Sr.(Dana Palmer Houseに住んでいた)の姪が、1913年に死ぬまでここに住んでいた。(Morell-Dana House前の看板より)
Pleasant Stの角に立つ野菜スタンドは、Lexingtonに最後まで残っていた農場の一つにある。今日のWilson Farmは、18世紀にBrown家が所有していた100エーカーの地所の一部に過ぎない。元の農家の一部は、改装された家として620 Mass Aveに残っている。
農場の奥の丘陵地11エーカーは、第二次世界大戦後の開発の前と同じ姿で、Lexington郊外の田園の痕跡として残されている。多くの町民たちは現在、町内の田舎の特徴を残すために、もっと積極的な公共的土地取得政策が行われなかったことを残念に思っている。(Brown Farm前の看板より)
もとはSamuel Winship農場の一部であったこの土地は、彼の息子により1784年にRobbins家、Winship家、Buckman家、Bowman家、他のLexintonの住民のために墓地として供された。Tavernを開設したいと望み、選出された委員会により却下された際、EliはDaniel Websterの援助を得て、訴訟に勝ったのである!
墓石の多くに刻まれた柳と骨壺は、18世紀はじめにおいて、絵画や編み物、そして墓石に広く用いられた死者を悼むシンボルであった。(Robbins Cemetary前の看板より)
First Teachers’ College
この建物は1822年、プライベートスクールのLexington Academyのために建てられた。1839年、マサチューセッツ州教育委員会のHorace Mannは、国内初の師範学校、もしくは教員大学の設置を州に求めた。ここで行われた講義は5年間、女性のみを対象として行われた(他の学校では男性のみ、あるいは共学だった)。入学者数が多すぎるようになったため、委員会はNewtonに新しい場所を見つけた。
その後、この建物は教会、商店、映画館など様々に利用され、1920年代にLexington Masonsによって取得されている。
The Old Burying Ground in Lexington
Lexingtonではもっとも古い墓地(町のサイトによる)。初期の移民、Revolutinary War、Civil Warの戦死者たちが埋葬されている。最古の墓は1690年のIsaac Stonという人物のもの。
Jonathan Harrington House
この家はLexington Battle Greenのそばにあり、1690年頃に建てられたとされる。1775年4月19日、Lexington-Concordの戦いにおいて、Jonathan Harringtonは当然戦闘に参加し、不運にも致命傷を負ってしまった。最後の力で自宅の玄関にたどりつき、妻の足元で息絶えたという。
Munroe Tavern Historic District
Lexington CenterからArlington方向へ下ったところにある歴史地区。Munroe Tavern、Sanderson House、John Mason HouseはNational Register of Historic Placesに登録されているほか、いくつもの歴史的スポットがある。
Nathaniel Mullikenは、1751年にNewburyportからLexingtonにやってきた時計職人であった。時計制作は箱職人、大工、器械職人の技術を必要とする複雑なプロセスだった。この3つの技術すべてに優れており、愛好家に好まれる時計を作っていた。
イギリス軍は1775年の撤退時に、彼の家と店を燃やした。彼の一家は新しい家を建てたが、その家は100年後にに通りの向かいのこの場所に移された。向かって左の家は1790年頃、革命後まもなく破壊されたRaymond Tavernのあった場所に建てられたものである。
車大工の Jonathan Huntにより1808年に建てられた。その後、Sullivan Burbank大佐が購入したが、彼は1812年の戦争(米英戦争)が始まると軍に加わったが、除隊後は1860年までここに住んでいた。1881年に家はMary S. Tuftsに売却されて、夫のFrancis Tuftsとともに1910年まで住み、”Tufts Place”と言われた。彼らはTufts Unversityの名前のもととなったCharles Tuftsの親戚でもあった。(Burbank Tufts Houseを参照。)
MedfordとMBTA 95
Medfordといえば、ボストン日本語学校が想起されるところで、ここへのアクセスは基本的には自家用車である。それとは別に、ArlingtonからMedfordへ向かうにはこのバス路線を利用するのが良い。Arlington Centerを出てMystic Riverを越えた後は、High Stを進んでいく。MedfordのNational Register of Historic Placesの多くは、この通り沿いにある。まずはWest Medford。Commuter Rail Lowell Lineの駅があるが、乗り継ぎは考慮されていないし、実際に乗り継ぐ人もほとんどいない。
ついで、バスはMedford Square、街の中心部に入る。
Mystic Riverは市を南北に分けている。他方、歴史的にはMiddlesex Canalの存在も無視できない。
そしてバスはMedfordの中心街を去り、Sallivan Stationへ向かう。Isaac Royall Houseの近くには、”The Mystic Congregational Church Bell”が残されている。
このベルは、Medfordの歴史の重要な一部分である。1860年、BostonのHenry N. Hooper Companyにより、直径44インチ、1700ポンド、F型として鋳造された。
この鐘は、Constitutional Union Party (立憲連合党)のJohn Bell (大統領候補)とEdward Everlett (副大統領候補)の大統領選挙のためにつくられ、「連合、憲法、そして法の執行」という碑文が刻まれた。鐘の反対側には、「Bell and Everett, 1860」とある。その年、鐘は荷馬車に乗せられ、6頭の馬にひかれ、鐘を鳴らすための数人の男たちに伴われてMassachusettsをまわった。
Lincolnの大統領選挙での勝利後、この鐘は三位一体協会がConstitutional Union Partyの州委員会より44 High Stの火事で破損した教会への保険金とともに買い取った。三位一体協会は、もともと鐘が鋳造された際に100ドル銀貨を一緒に溶かし込むために寄付していた。1874年、鐘は30 Salem Stの改築されたMystic Congregational教会に移された。その後、劣化したNew England Baptist Churchの尖塔が撤去される1990年まで、鐘はそこにあった。その後、鐘はMeford市に買い取られて、Michael McGlynnと市評議会の尽力により、現在の場所に移された。
Downing Memorial Square
ArlingtonのVeterans Memorialのひとつ。
Idahurst
この家は1894年、Elbridge Farmerにより建てられた。彼は長らくMass Ave沿いの農場主として生活していたが、73歳の時にEli Robbins (Robbins Libraryの名前のもととなる)と結婚していた妹のMariaが亡くなり、この土地を相続。しかし、実際にこの家で生活し始める数週間前に、自身も死亡した。その後は妻Nellieが1913年までここに住み、彼女がボストンに去ったあとは、所有者が何度も変わった。そのようなこの家の歴史は、なんと”Idahurst Mansion in Arlington Heights” (2005)にまとめられ出版された。著者のPauline E. Kellyは当時の家の所有者。
Pleasant St
Arlingtonのもっとも古い道の一つであり、Arlington Walksによると少なくとも17世紀半ばにはWatertown Roadという名前で存在しており、1846年に現在の名称となったという。19世紀後半から住宅化が進み、ArlingtonからBelmontに抜ける幹線道路でありながら、片側一車線で渋滞しやすい。Arlington Center Historic DistrictのOld Burying Ground (42-60)、Edward Hornblower House and Barn (200)、First Parish Church Parsonage (232-34)、Prentiss-Payson House (224-6)、Call-Bartlett House (216)、Edward Hall House (187)、Pleasant Street Congregational Church (75)は、National Register of Historic Placesのリストに登録されており、他にも古い家が多く残っている。
Pleasant Stを走るバスはMBTA 67でAlewife StationとTurkey Hillを結ぶ。土日は便がない路線である。
“MBTA has decided that this neighborhood should no longer have a bus to Alewife Station. Bus 67 will be eliminated unless they hear from you.”と恐ろしいことが書いているが、2022年12月時点では廃止されていない。私は職場から帰宅する時にときどきこの路線を利用するが、誰も乗っていないということはまずない。
Maguire Square
ArlingtonのVeterans Memorialのひとつ。
Grant Square
ArlingtonのVeterans Memorialのひとつ。
Conners Square
ArlingtonのVeterans Memorialのひとつ。
Williams Square
ArlingtonのVeterans Memorialのひとつ。
Napolitano Square
ArlingtonのVeterans Memorialのひとつ。
Jonathan Dexter House
Jonathan Dexter Houseのあった場所。
米国最初の無料子供図書館の起源の地である。
Jonathan Dexter (1775-1861)は、Arlington最初の司書・図書館員。1835年にDr. Ebenezer Learnedの寄付により子供図書館(現在のRobbins Library)ができたときに、手押し車で本を運んだという。
Old Men of Menotomy
1775年4月19日、この場所において、Menotomy (Arlingtonの旧名)の年配の男たちが、Lexingtonの英軍に合流する途中だった、18人の兵士からなる補給物資の護送部隊を捕らえた。
Saint Athasius Greek Orthodox Church
1940年代から50年代にかけて、多くのギリシア系移民がArlingtonに住むようになった。そこで1964年、Mass Ave沿いの教会(現在のHighrock Church)を買い取りSt. Athanasius Churchとしたが、手狭になってしまったため現在地に移転。
ここはSt. James the Apostle Roman Catholic Churchだったところであった。
Arlington Veterans’ Roll Call
ArlingtonのVeterans Memorialのひとつ。Arlington Centerの消防署の正面にある。
Robbins Memorial Town Hall
Richard Clipston Sturgisの設計による1912年の建築。
Cooper’s Tavern
ここにCooper’s Tavernがあった。
1775年4月19日、Jabez WymanとJason Winshipが英兵によって殺された場所である。
Wymanは39歳、義兄のWinshipは45歳。2人は非戦闘員で、ここで酒を飲んでいたという。
Lexington-Concordの戦闘後、敗走してくる英兵はまず酒場に発砲、ついで建物内に侵入して2人を殺害した。
のちにこの場所は”Arlington House“と呼ばれていた。
Poter Square Hotel
Porter Squareの駅前にあるホテル。アクセスが良く、便利。値段も手ごろである。
Livingstone Square
ArlingtonのVeterans Memorialのひとつ。
Black Horse Tavern
Black Horse Tavernはこの場所にあり、1775年、安全委員会がここで会合した。
Revolutionary Warの直前、Samuel Adamsに率いられた安全委員会はここBlack Horse Tavernにおり、英軍の動きを監視していた。1775年4月19日午前3時頃、Concordに向けて進軍してくる英兵がここを捜索、しかし委員会のメンバーたちは逃走し、背後のトウモロコシ畑に隠れたという。
Avery Square
ArlingtonのVeterans Memorialのひとつ。
Uncle Sam Plaza
愛国者Samuel “Uncle Sam” Wilson (1766-1854)の生誕地はこの付近である。1775年(の革命)に参加。
Troyにある彼の(食肉の)梱包施設は、1813年に戦った兵士に食料を供給した。
彼の有名なニックネームは、樽にスタンプされた”U.S.”の文字に由来しており、米国そのものが”Uncle Sam”と呼ばれることとなった。
スコットランド系移民の一家に生まれる。幼少期にNew Hampshireに移り、のちに軍役につく。さらにTroy (NY)で兄Ebeneezerとともに食肉業E&S Wilsonを立ち上げた。
1812年の戦争(米英戦争)では食肉の需要が拡大、米軍と食肉供給契約を結ぶ一方、食肉検査官となり検査済みの樽に”U.S”とスタンプしたことが、米国を”Uncle Sam”と呼ぶきっかけとなったという。
Dahill Square
ArlingtonのVeterans Memorialのひとつ。
Captain Cooke’s Mill Lane
Captain Cookeの水力製粉所への道。1638年に建設された。この付近では最初の水車小屋である。
Schwamb Millの歴史によると、
Captain George Cooke(1610-1652)はイギリス出身、1635年に渡米。軍務につく一方、Arlingtonで最初の水車小屋を創設。
1645年に施設を放棄してイギリスに帰国し、クロムウェル軍に加わってアイルランドなどで戦った。1652年、戦死。
1670年、イギリスに住んでいた娘のMaryは、LexingtonとArlingtonにある父の土地をJohn Rolfeに売却。彼は、同じ場所に新しく水車小屋を建設している。
Thomas Russell
「1750年、Thomas Russellの総合商店(よろずや)があった場所。
1775年4月19日、英軍の退却中に略奪された。」
John Cutter
「John Cutterの家が建っていた場所。
1775年4月19日、英軍の撤退時に放火された。」
John Cutterは1690年10月15日、Cambridge生まれ。1776年1月21日没。10人の子供がいた。
Samuel Whittemore
「この付近において、1775年4月15日、当時80歳であった彼は、3人の英国兵を殺した。
彼は銃剣で撃たれ、突かれ、殴られて、死亡したものとして放置された。
しかし、その後回復し、98歳まで生きた。」
Samuel Whittemoreは1796年7月27日、Charlestownの生まれ。2度結婚し、娘を一人もうけた。Menotomy (現Arlington)で農場を経営。
40代半ばにKing George戦争(1744-48)に出征、Louisbourg要塞の奪取にも参加。この際にフランス軍将校より”Ornate Sword”(宝剣とでも言おうか)を奪い取り我が物とした。
一説には67歳時にはFrench-Indian戦争(1754-63)にも参戦したといわれる。
1775年4月19日、Lexington-Concordの戦いが起こり、英国兵は敗走。Hugh Percy麾下の部隊が退却を援護するために出撃したが、米側の激しい追撃は続いた。
Whittemoreは畑にいたが、付近の石壁に武器を集めて待機、英軍第47 (ランカシャー) 歩兵連隊の兵を狙撃した。ついで、殺到してくる英兵を過去の戦利品である剣で追い払おうとしたが防ぎきれず、打ち倒されてしまった。
碑には80歳とあるが生年月日から考えると78歳の誤り。1793年2月2日没、96歳であった。
いずれにしても、American Revolutionary Warにおける最年長の米側戦闘員とされている。
Poter Square Station
Porter Squareは地下鉄Redlineの駅だが、Commuter RailのFitchburg Lineの駅でもある。
ターミナル駅のNorth Stationの次、Zoneは1A。
地下鉄はそれなりに来るので人気が途絶えることはないが、コミューター駅のほうは列車の来ないときは誰もいないのが普通である。
Jerome Wheelock
機械工、発明家、製作者、慈善家。
1834年6月20日Graftonにて生まれ、1902年2月26日没。
Worcesterの189 Unioin StreetにあったWheelockエンジン会社にて、蒸気機関のシリンダーパッキン、およびCorliss式水平蒸気機関を発明・製造した。
1891-1902年において、43の米国特許がこの発明家に認められた。
Unition Station (Worcester)
1911年建設。1960年代までは様々な鉄道路線が行き交い栄えたが、1970年代より荒廃。1990年代に再興の機運が高まり、巨費を投じてリノベーションし、2000年に再オープンした。
駅舎内は驚くほどきれいである。駅構内は広大である。
ボストンのSouth Stationとを結ぶコミューターレール(Framingham-Worcester Line)が主な列車。ほかにBoston-Chicagoを結ぶAmtrakのLake Shore Limitedが1日に1往復通る。
駅周辺は散歩には適さないと思われるが、駐車場は充実している。